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夢舟亭
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<この文章は商業的な意図をもって書かれたものではありません>


夢舟亭 エッセイ      2006年11月19日


    ポール・モーリア
 
 古き良き時代、1960年代。
 世界が戦争はもうたくさんだとあらためて思いかえしたころ。
 平和というものがいかに楽しいか実感できたころ。

 そういう中でニホンも「もはや戦後ではない」と、気の早い希望を口にした政治家もいた。
 頂上が見えず、夢中で登る坂がじつはいちばん幸せなのではないだろうかと、今思う。
 お弁当をもって、さてどんな楽しいところに行き着くのだろうという思いの遠足気分は、嬉しいものだ。
 つい口笛などがでる。と、それに合わせて、歌声も聞かれる。

 当時アメリカンポップス軽快なリズムの米国の歌謡が、若者のあいだでもてはやされた。
 ニホンにもカントリー・アンド・ウエスタンや、ロカビリー(ロック)それにジャズが流れ込んできた。
 あの正義の戦勝国は強大で物に溢れ、自由の証のような笑顔に満ちて眩しかった。

 合わせてヨーロッパからも、イタリアはカンツォーネが、ドイツからはコンチネンタルタンゴが、フランスからはシャンソンが、ロシアからも民謡が。スイスからもヨーデルが。それらに加わるは映画の音楽スクリーン・ミュージック。
 歌に、演奏音楽にと、世界が待っていた春、花咲きほこる響きが街に流れた。

 あれから、どれほどの時間が過ぎ行きたものだろう。

 2006年今年、11月3日。
 81才の音楽人生を閉じたポールモーリア氏。
 この人もそうした時代を先導して駆け抜けたアーティストの一人ではないだろうか。

 世界の人が彼の存在を知ったのは60年代から70年にかけて。
 若者文化のエポック、てけてけてけ〜、のエレキギター。明けても暮れてもギター演奏グループのサウンド真っ盛りのころ。

 なんとエレキサウンドの中心アメリカの、ラジオリクエスト番組で。
 その時々の人気流行曲ベストヒットがかけられるそのなかに。
「ラヴ・イズ・ブルー」という曲名が、あがった。
 見る間に上位に昇りくるそれは、弾けるあのエレキギターのサウンドではなかった。
 ニホンでは「恋は水色」でおなじみのあの曲。

 とってもファミリー感覚でポップなサウンド。
 ヨーロッパ音楽祭、ユーロヴィジョンコンクールで歌われて、絶賛をあびた曲の、小型オーケストラ演奏もの。
 当時シャンソンの伴奏をしていたポール・モーリアが編曲指揮し、彼のオーケストラ、放送用伴奏の小型編成管弦楽団が演奏した。

 この演奏が本歌をはるかに凌ぐヒットとなって、またたくまに全世界で歓迎された。
 それも若者文化の時代の始まりであるエレキサウンドの曲群に競り勝って。

 アットホームな演奏は当時多かったのではある。
 たとえばビリーボーン楽団(米)の「真珠貝の歌」、パーシーフィエース・オーケストラ(米)の「夏の日の恋」、あるいはマントーバーニーオーケストラ(英)の「シャルメーヌ」、のちにはレーモンルフェーブル・オーケストラ(仏)の「シバの女王」をどれもが老若の心をとらえた。
 ・・ではあるが、「恋は水色」はそれをも超える快挙を成し、より知らしめたと思う。

 これを皮切りに、ポールモーリア・グランドオーケストラと銘々してほぼ毎年、アジアのこのニホン列島も演奏ツアーしてくれた。
 つい近年まで、中高年世代が目立つ観客の拍手のうずにこたえながら、演奏ツアーは続けられていた。

 いなか暮らしの私さえが、家族6名全員を、それぞれ別々の年に聴くことができた。
 妻はもちろん、子どもは分かる年頃になるのを待って、彼のオーケストラコンサートのホールへ連れて聴かせた。
 休憩のとき、女高生など若い女性が、花束をもって楽屋を出入りしていた。
 それを見た息子が、へー、かっこいいね、と見入ったものだ。

 しかしいちばん下の子の年には、ポール・モーリア氏ご本人は来日困難で、ステージに姿はなかった。
 そしてこの文化の日。ついに帰らぬひととなったと報じられた。

 ポップス・オーケストラの時代はこのポール・モーリアの死によって、ほぼ幕を閉じた気がする。
 
 このかたが世に出て活躍始めた時代は、小編成の演奏団体がきら星のごとくステージにレコードに、光あざやかに在って演奏を競っていた。
 夢のような時代だったと、今さらにストリングス弦楽器群の艶ある響きを思い出すとき、ため息がもれる。
 ジョージ・メラクリーノ・オーケストラ、マントヴァーニー・オーケストラ、フランク・チャックス・フィールド・オーケストラ、ウェルナー・ミューラー・オーケストラ、アルフレッド・ハウゼ・オーケストラ、マランド・オーケストラ、パーシー・フェース・オーケストラ、ビリーボーン・オーケストラ、クレバノフ・シンフォニック・ストリングス、101ストリングス、フランク・ポールセル・グランドオーケストラ、レーモンル・フェーブル・グランドオーケストラ。のちにリチャード・クレーダーマン。
 ボストン(交響楽団)ポップスオーケストラやロンドン(交響楽団)フェステバル・オーケストラはもはや小編成ではないのだが、このジャンルにあって同じ曲をそれぞれ独自の味を楽しませてくれた。
 ニホンでもNHK交響楽団が岩城広之指揮で、ほかのクラシックオーケストラが、粋な優雅な演奏をやってくれたものだ。

 こうした絢爛豪華な演奏集団が、わずか数分間のアットホームでポップ、ときにエレガントな曲を、次々に編みだしては聴かせてくれた。
 それは市民文化の贅沢な花束であり、心の泉であり、庭のティータイムに憩うときの爽やかなそよ風だった。
 これらの音楽を当時、軽音楽ともムードミュージック、あるいはイージーリスニングミュージックと呼んだ。

 時をおなじくして、文化振興のツール、電子機器産業の華ステレオ、音響オーディオ機器生産が盛んになって、大いに売れた。
 映画音楽、ミュージカル曲、セミ・クラシックの小曲、民謡やポップス曲をそれぞれ独特な編曲と演奏のLPレコード1枚か2枚は、どこの家庭にもあったものだ。

 たとえその余裕がなくとも、実験放送試験放送から始まった美音が楽しめるFMステレオ放送が、こうした楽しい演奏を扱わないわけがなかった。
 かくしてポップで流麗なオーケストラサウンドは、街々に村々に流れては、各地のリクエスト番組をにぎわした。
 それが後々に続くファンをどれほど生み増やしたかしれない。

 今、経済的採算性ということが、ことを興し人生をかける仕事の人の第一テーマである。
 しからば儲からないことは、罪悪だといってはばからない。
 たしかにひとは霞や雲を腹の足しにできない。五臓六腑を満たすにはいくばくかの金銭が要る。
 たかが数分間のポップス曲を大の大人の、音楽職人集団数十名で演奏することの、非効率性は現代人にとって即計算できる答え、無駄。つまり儲からない。人数を減らせ。一人でシンセサイザーでもやれば済む。・・一瞬で言い切られてしまうだろう。
 だからだろうか、そうした演奏団体が生まれた話や新しい名を、私は知らない。

 80年代以降、すっかり音楽を聴く楽しみから遠のき、日銭をにぎり夢中で生きてきた。
 60年70年代からくらべれば、今人の動きは加速し、身の周りの物の機能性能は向上著しい。

 だがそれに比例して、糧を得る苦労は時代に逆行するかのように増した。音楽に耳傾ける間も、心の余裕もない。
 この先一層、市井のわれらには臓腑がキリキリ舞して、威圧も重圧も重荷な仕事も、降りかかってこよう。さらに働く環境も雇われる条件も悪くなってきそうである。
 とてもポップでイージーでムーディーな音楽に一息つける状況はない、かもしれない。
時間があっても、疲れた耳は眠っているだろう。
 せいぜいが心まで届きそうにない刺激的CMの楽音で耳をさますことになるのか。

 しかしそういうなかでも、心の糧であり遊び心ともいえる快適なひとときを持つことの意味。そうした音楽の価値を知っている人たちは、その恵みに浴したことをけして忘れてはいけない気がする。
 それは戦中のことを語り伝えた先人の役目のようなものではないだろうか。

 ポールモーリア氏と彼のオーケストラが遺した演奏をいま耳にするとき、私はそんなふうに思うのだ。



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