夢舟亭 エッセイ
2006年08月02日
さまよいしもの
今年は例年よりも梅雨明けの遅い地域が多いと聞きました。
思うに、国内列島あちこちの山川にさまよう死人の涙かもしれません。
子どもたちが夏休みに入るこの時期になると、毎年父兄が地域の河岸や沼べりで、進入禁止札を立てたり、廃棄投棄で流れ着いたゴミ清掃をするのを見かけます。
私も育てた子どもの数ほどに経験があるが、皆その日その日を精一杯暮らしているだけに、作業の声が掛かると時間やりくりに苦労する。
そこで、最近は休日のある朝、県下一斉のクリーンアップ作業という全戸総出の形をとっています。
うさぎ追いしの山野の喪失と同じく、こぶな釣りしはずの小川の岸辺も、一直なコンクリートと変わってしまっていて遊ぶに適したものではない。
そんな浅瀬には、ペットボトルやアルミ缶、紙コップやスチロール片やビニール袋ほかが流れ着いて、あるいは風にとんで。
どれも腐らず錆びず消滅しないまま、土埃や泥をかぶっているのです。
風にとんで流れ漂ってきたというだけではなく、橋の上などから走行中車窓ポイ捨てもあると思える満パンな廃棄袋まるごともあるわけです。
便利でお手軽な商品の数々により、捨てるに慣れた生活のなかに見る廃棄集配用のあのビニール袋。資源環境保護の分別する中身確認のためか素透しです。
見るとはなしに目に入るそれには、スーパーやコンビニ商品のパッケージ廃物が多い。
どこも同じだろうが、気忙しい日々の家々の様子が、大きなビニール袋の中に見える気がします。
おふくろの味、母の匂い、ママの気遣いが。パッケージングされた品々で代用されているのかもしれません。
それほどにも近年の生活は家族すれ違いで揃わずに。時間の経過もめまぐるしく行き違っているのか。
などと要らぬ思いで汗ぬぐいながら清掃作業を終了しては、ご苦労様挨拶を腰を伸ばしつつ交わしたのでした。
そういうことと、どの程度関係があるか私には分からないのですが。
昨今の犯罪ニュース記事で気になるのが、死体遺棄。
つまり殺してしまった死体を、山や川に、まるで清掃で集めたあのゴミの様に捨てられた事件です。
殺人犯人が、おのれの手で加えた殺意の行動で息絶えた遺体を、山林河川に捨てた。
死体を捨てる、というこの事が殺すに至った動機以上に不可解にも不気味にも感じるのです。
例えばの話などしたくはないが、万一殺めてしまったとき。
そこに殺意があって自首もしないで逃げ失せようとするなら。
その死体を捨て置き野放しということがあるだろうか、と。
犯罪者の心理などというものはそういうものさ、というかもしれません。
だが、どれも捕縛されてみれば、悪人っぽさのない犯人像は、ごくフツウの人。
同類の屍に本能的に恐怖を感じるのを利用するのに、農家の、農作物を食い荒らすカラス害対策がある。
カラス死骸を畑の周囲にぶら下げて講じるあれである。
人間とて、憎もうと怨もうと、殺められた人体はその瞬間から物言わぬ死体。
本能的に恐れて、その屍には戦慄も走ろうもの。
人として死人を見れば、叫びさえあげてしまうはず。
そうしたはずのものを、埋めもせず隠したとも思えぬような場所へ、公然のもとにさらすというなら。
どうだオレは人殺しなど何でもないのだ。お前たちも気をつけねぇとこうなるぞ。
というような仕返しや見せしめの思いだろうかとも思うのです。
だが、そういう意図があった様でもない。
あまりに悲惨な行いに似合わず、極悪非道の人でも狂人にも見えない犯人という現代のこれら犯罪人たち。
今どきは、昭和人と違って、死体死者、生きていた肉体が息絶えることや、魂、屍、怨霊への思いが極めて薄いのかもしれない。
だがしかし犯人の年齢層はけして平成の子どもばかりではない。昭和生まれのオトナも多い。
ならば平成の今の空気を吸っていることで、皆がそういう感覚になってしまったのか。
などと、これもまた、要らぬ思いなのだが、次々に湧いてくるのでした。
そういうときふと思いあたったのだが−−
他人の指摘や大勢の意見アンケートがあるからと、経済面商売上都合が悪くなったのか、各国それぞれの思惑が発する声に耐えられないのか。
ついこの間まで手を合わせていた墓石を蹴飛ばす様に、最悪の罪人に下す死刑極刑を課されすでに生命を絶たれて今眠る霊を。
置くな取り出しても移し替えろ、拝むな、と捨てろほどの声が高く唱えられている気がするのです。
とうの昔に息絶えて霊となっていながら、落ち着くところも許されず、成仏もままならない霊に。
皆で石もてぶつけるほどの権利や義務があるのかどうか。
神仏仏門のことは私には分かりません。
ああ昔も今もこの先も、時々の社会の都合に合わせ皆の利害得失打算の声に従って、ほどほどに心の折り合いを付けては従っているのか。
と、死体であれ霊や仏であれ、墓石であれ、蹴飛ばしても捨てられるような言動に疑問を持ってしまうのです。
だいいちそれでどんな本質が解決するというのか。
時間や歴史でも戻るというのだろうか。
子どもの喧嘩でも、泣きが入ったら勝負有り、そこまで。
同じく、大罪であると命を召し上げたその後は、死者を野辺送りをもって弔い、霊はすべて神仏と化すと聞かされてきた。
実際いかに恨もうとその先何が出来ようか、というのは武士の心かもしれない。
罪を憎んで人を憎まず、という言葉があって、多くがそう信じてきた気がする私は、死人、死体、屍、仏、墓石、お寺、神社仏閣、墓標などそういうものを前にすると昔の経緯など気にもとめずつい両手が顔の前で合わさる。
ときには瞼も閉じる。
で、話を事件に戻せば−−
そういう死者への思いとは違って。
他人を知人を家族を親を子までも、おのれの手で物言わぬ屍にしてしまって。
廃物でもあるかに人里離れたとはいえ野ざらしにされ、あるいは空き缶やペットボトルやコンビニ弁当の空と一緒に川に流れ漂う死体屍となった霊。
それへ不憫さも感じず、常人然としているというのは……。
先日あるテレビ番組で。
小学生に、人は生き返るか、命は復帰回復すると思うか、の問いに半数以上が「する」と、真顔で答えたのを見てぞっとした。
重罪を犯したという顔には見えない今どきの罪人らのごときか。
思えば、我々をとりまく現代の多くの科学技術の落とし子が、じつは人心の維持発展にさほど有効に機能していないと知るべきではなかろうか。
優しさ、思いやり、気配りなどという手応えのない言葉が空滑りし始めたのはいつ頃だったか憶えてもいない。
だが、つまるところ厳しさ逞しさを欠いたにすぎなかったか気がする。
もっとも、情愛や悲しみ憐れみなどというものは、教えて知るほどに学問や公式が要るのかどうか。学校で教えるまで待つべきことなのでしょうか。
子を、くわえても物陰に運び込み。近づこうとする人間を牙をむき出しては遠ざけて。
必死に子を守るわが家の親猫に、その辺りを是非問うてみたいと思ったものです。
みゃおぉ〜ん。
|