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夢舟亭
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夢舟亭 エッセイ    2009/05/14



    早苗のころに



 ちょうど田植えどきのある夕方。
 辺りが暗くなるのを待っていたようにして、よそのおばちゃんが来て母の前で困っていた。

  ンでも、おらぁ。どうしようもねぇんだぁ……

 そのおばちゃんは1年ほどまえに、となりの地域のある農家に嫁いできたひとだった。

 わたしがその顔を憶えていたのは、当時自宅で行う三日三晩の祝言の、嫁入り行列に手をひかれて来た花嫁だったから。

 その夜農家の座敷はぶち抜きの広間が開け放されて、外からもながめられた。
 お披露目の正面にかしこまっている花嫁の艶やかなその姿に、めんこい(可愛い)嫁だことない、きれいだなぁと、皆がため息をもらしていた。

 それから2年と経っていなかったろう。

  あんたねぇ。このお腹の中。大切にしなくちゃぁ。
  生まれてくる赤ん坊だけでないんだからね。わが(自分)のからだも大切なんだよ。

 母が諭すように言う。


 おばちゃんは田んぼからあがってすぐ来たのだろう。裸足に農作業のモンペ姿。
 その下半分が泥まみれ。
 それもまだ乾かず濡れたままで立っていた。

 痩せ細っているせいか、お腹に子を宿しているような体には見えない。
 皆が目を細めたほどの白い顔にも田植え作業でついたか、泥が灰色に乾いていた。

 紺絣(こんがすり)の古着の襟を前でしっかり合わせたそのおばちゃんは、いまにも泣き出しそうだった。

 母への返答に窮している様子は、中農家の嫁の立場に慣れていないのが、小学生のわたしにも分かった。
 無言のおばちゃんを励ますように、田んぼからはげぇこげぇことかえるの合唱がにぎやかに聞こえていた。



 今では5月となればゴールデンウィークなどとして、国中が行楽話一色で賑わう。
 けれど昭和の中のあのころ、この季節この地方の農村では、どこの田んぼも早苗どき。
 猫の手も借りたい、といわれる春の農繁期である。
 大忙し田植えの真っ盛りであった。

 平成の今なら田植えなどするにも、屋根のある耕耘機(トラクター)で済ませる。
 わが家の前にひろがる大きい田んぼも、一人乗りこんで軽快に行き来して、文字通り朝飯前に済まされている。
 オーバーに言うなら、蝶ネクタイにタキシードを着てでも出来そうな、機械化農業にかわっている。

 その気になればウォークマンかダウンロードプレーヤーのイヤホンを耳にはさんで、鼻歌まじりのハンドルさばきも出来よう。

 早朝に済ませてシャワーをひと浴び。
 スーツに着替えてネクタイしめて。
 ピッカピカの車でさっそうとビジネス街に向かうご時世です。


 けれど、あのころは牛馬の力を頼りに田畑を耕し。
 隣近所の家同士が、互いの水田に皆が総出して。
 水面をなめるように腰を折り、横一列に並んでは延々と植えてゆく、昭和の時代です。

 自家の作業を手伝っていただいた後は、そのお返しをし合うことが通例。
 それで成り立つ「結(ゆい)」、助け合いの共同農作業なのでした。

 だからこのおばちゃんのように、嫁は身重でお腹に子どもがあっても、まさかつわりくらいで休みたい寝ていたいなどとは、言えようもないのでした。

 今どきなら、善い舅(しゅうと)、優しい姑(しゅうと)ばかりが微笑みかけてくれるホームドラマも多いことでしょう。

 しかし−−

  おらぁが嫁いだ頃からくらべたらぁ、いまは楽でいい時代だでぁや。

  うンだ。それをいいことに、まぁいまどきの嫁ってものはまンず働かねぇ。

 などと大先輩たちに、にらまれては、休みの「や」の字も口にできるはずはない。
 姑は「様」付けで一目おかれていたのです。
 くわえて、近所の目や口はふさげない。何より恥を知る時代です。

 ですから労働時間がどうのこうのというような時代ではもちろんなく。
 時間の長短もさることながらその過酷さ。

 農事のすべてはもちろん、子守に介護に、家事全般。
 水くみ、洗濯、風呂、炊事。
 さらには大切な家畜の世話、手作り飼料から糞尿は堆肥処理。
 人糞だって畑へ運ぶ。

 よくもあるものだという仕事を同居する小姑や近所の陰口に気遣いながら。
 そのすべてが当時は手作業。身体ひとつでこなす。
 馬車ひく馬の働きの域をも超えて、寝る間もないという言葉がぴったり。
 自分の身体が自分ではままならない。

 だのに、夫にまで付き合うとなれば・・子もできよう。


 こうした農家の嫁さんの言うにいえない苦労を、当時村の保健婦をしていた母がよく話していました。

 東北にかぎらず日本全国が物不足で、栄養の不足や偏りは言うまでもない。
 けれど、それにもましてこうした労働による母体の酷使の日常が農業。
 母体だけではなく農家の重労働の過労は、どこも似たり寄ったりだったようです。

 ですから過労による流産死産、そして栄養不足から乳が出ず。
 虚弱な幼児の死亡率は高かった。
 なかなか減らず下がらず、終いには厚生省が国策にまで掲げたというのでした。


 となれば健康確保のために、生活指導員たちはいかに過去の常識因習、慣習をうち砕いて少しでも食生活と休養への理解を高めるか。
 無理解との苦戦は想像を超えたようです。

  せめてお腹の赤ちゃんのためにも玉子とか魚などを食べさせて。
  できるだけ早めに休ませてあげて欲しいのですが。

 などと一通りのことは言ってみるものの・・

  ばっかやろうぉ。簡単にいうでねぇ。
  こぉの忙しい田植えどきに若い嫁に働いてもらわねぇでどうする。
  おらぁの家は華族さまや皇族じゃねぇぞ。

  おらのかあちゃんもばあちゃんも。その前の婆たちもみーんなこうしておらたちを生んで、育ててきたんだ。
  それがいま何でできねぇ。どこが悪い。

  おらんとこの嫁に変な理屈吹き込まねぇでけろ。
  それともおらの嫁に昼寝させて、かわりにおめぇ田植えしてくれるつうのか。

  まぁったくいまの役場の野郎どもは、役にたたねぇことばかりしやがる。

  ああ帰れかえれ!

  もぉおらの家にゃあ来るこたねぇぞ。

 乗り降りしながら山坂峠の道をどうにか引いてきた自転車を蹴飛ばされ、追い出されることも度々だった。


 しかしこれも無理のないことなのです。

 農家は自然にめぐる季節に従って行う農事で生きている。
 一方的で選びようがない日々の気候にあわせて。
 やれるときに総出でやってしまわなけなれば秋の収穫は望めません。
 それが農作業の実際でしょう。

 人間の側の都合や家族の気分や健康などにはいっさい付き合ってくれないのが自然の摂理。
 自然に対しては、法も決まりも通じない。
 それが大自然相手の一次産業の辛さです。

 となれば病気だからお産だからと甘えることをいっさい許さない。

 そうしてみれば農家では、嫁とりこそは重要な労働力確保の賭けとなる。
 人選を誤れば、助けになるどころか足手間どいとなり、家族皆が泣きをみることにもなるのです。

 小食で、口数少なく。
 笑顔をたやさず、よく気が付き。
 寸暇を惜しんでよく動く嫁。
 なによりも丈夫な身体で、犬猫のように暇などとらず子を産む女。

 姑らは、臨月にだって身体動かして仕事するぐらいのほうがやや子に良い、などと真顔で自慢し合うほど。
 今なら震え上がるか、激怒するような、そんな考えかたが小作農のころから続く生き方なのでしょう。

 なにせ地主から田地を借りて農耕の実りを貢ぐ小作制度からの農民です。
 農地を小作民に解放されたのは、戦後1947年。
 戦後2年の後。ニホンに駐留していた米軍の指令によって農家へ分配され所有したのでした。



 そうした時代の先で、土地こそ得たものの、まだまだ農家の仕事は大変というころ。
 ある夜わが家に忍ぶように訪れたそのおばちゃんも、農家で労苦に泣く身重の若い嫁さんの一人でした。

 多産など珍しくない農村とはいえ、その夜の客はまだ20才そこそこ。
 それも初産のようでした。

 今どきの幼げであっけらかんとした二十代とはちがって、日々の疲れに打ちのめされた感じはすでにおばぁちゃん顔でさえある。


  保健婦さん。今日おら家に訪問に来てくれたときは、はぁ、うちのひとらが申し訳ねぇこと言ってしまってぇ。
  あういうわけだから、この後は来ねでもらいてんだぁ。

 その日母が妊産婦家庭の指導訪問に出向いて、家人たちからいつもの罵声を浴びたのでしょう。

  いいえ。わたしはそれが仕事なんだから、あんたが気にすることはないんだよ。
  何回でも行かせてもらいますからね。
  けどねぇ……あんたが困ることになっては仕方ないねぇ。

  おらが、保健婦さんに、何か告げ口してるンだべって、義母(かあ)ちゃんが怒ってしまってぇ……
  そっだにおら家が気にくわねぇならとっとと里に帰ってもらべ、なんて言うもんだから……
  義父(とう)ちゃんもあのひとも、口そろえて。よそ者に家の恥さらすんでねぇ、って怒っちまってはぁ……

  そうなの……

  保健婦さん。おらぁはもういいんだぁ。
  実家に帰ったってドン百姓の子だもの。
  でもなぁ、おらの実父(とう)ちゃんはぁ、ばっち(末っ子)娘のおらを、めんご(可愛い)がって育てくれたもんだからぁ。おらこの歳でも何ンも知らず。
  嫁に来ては身体弱くてはぁ、ばか嫁、役立たずになっちまったもンなぁ。

  あんた、役立たずではないんだよぉ。
  つわりで食えないで、それでも休まず無理するから。だから痩せてしまって。
  それで病弱なだけなんだからね。

  保健婦さん。働けねぇんではどっちも同じことだぁ。
  きのうも、たんぼ道で、おらぁ倒れちまって。
  これは役立たずって言(ゆ)んだぁ。うぇんえんえん……

 おばちゃんは、借家の狭いわが家の玄関先に腰をおろすとうずくまり、竹久夢二の絵のような白い顔を手ぬぐいと両手でおおってしまった。

 さすがの母も何を言ってよいか分からず、おなじく目の前に屈んで、肩に手をおいたのでした。

  お産、初めてだし。おらぁ、おらぁ……
 しぼるように言うと肩をふるわし嗚咽するばかり。

 暗闇の先からは、けろけろ、げろげろ、くえぃくえぃとかえるの混声合唱がいっそう大きく聞こえてくるのでした。


 その後、そのおばちゃんはどうなったのか。
 無事に出産までたどり着けたのか。

 遊び盛りの男の子だったわたしにそのあとのことは分からないままです。


   ・


 幹線道路がわが町を迂回するための四車線バイパスが田園のなかを走っている。

 そのなかほどの、減反休田地帯の田んぼ一帯を埋め立てたかと思うまもなく、ショッピングモールが建った。

 そこには家電量販、車用品、衣類、靴、食品、雑貨ほかの大きな店が、広い駐車スペースを囲んで、「U」字形に寄り合っています。

 休日ともなると近郷近在からの客で駐車場はかなり混み合っている。

 こうした店舗のせいばかりでもないのだろうけれど、旧市街地の客の流れが少なくなっているのがわたしにも分かる。

 そうした今時代の買い物客のひとりとなって、夫婦でモールを訪れてみる。
 と、山と積み上げた野菜や果物。ほか食材。

 ショウウインドウのまばゆいばかりの貴金属の品々。

 大型テレビが並べられ実像より鮮やかな映像が踊って。
 その先ではパソコン群のパネルが輝いている。


 モールの右側が食料店。その入り口には軽食のレストランがある。

 わたしは休日に寄るとときどき、妻とコーンに真っ白くひねった山もりソフトクリームを楽しむ。


 先日。そこへ幼い女児の手をひいた年寄りが入ってきた。
 わたしだって老人の部類なのだけれど、その老女はまるで地をなめるように腰を折って歩いてきた。

 そうした姿は最近ではあまり見かけない。
 長い間の農作業の末にそなわってしまった体型としてまれに見かけることがあるていどだ。

 ばあちゃんばあちゃんと、指さす幼い子の先にはチョコのドーナツが描かれてある。
 ああよしよしとうなずきながら足をとめて、ふいと背を伸ばし一休みする奥の席。

 幼い声の注文の品名に応じる、店員。
 老幼ふたりの顔が、白丸テーブルに向かいあって、にこり。

 老いた顔はすでにしわ深く、陽に灼けて黒くしぼんでいる。
 髪は白く、身体ぜんたいが縮んだように小さい。

 わたしはその老女の顔に見入った。
 その目鼻や顔の輪郭……
 とても変わってしまっている。が、見覚えがあると気付いた。

 ちょうど今が早苗の季節ということもあって、思い出したのかもしれない。

 あの夜のおばちゃんではないかと、わたしは離れた位置から、身振りや声音を辿るように確かめていた。
 そう確信するまでには、しばらくかかった。

 けれどたしかに今は亡きわたしの母に、泣き崩れるようにしゃがみこんで慰められていた色白の竹久夢二絵の顔、若い嫁さん。
 あの老いた姿でした。


 ああ……あの日から、今日のここまで。

 課せられたおのれの運命(さだめ)に抗することなく。
 歯をくいしばって、お腹をいため。
 子を生み。育てながら。
 姑たちを看て、送ってやり。

 夫に従って生きて。
 何人かの子どもを、ひと(夫婦)にしてやり。
 今こうして孫の手をひいてきたのか……。いや、ひ孫かもしれない。

 あまりに見とれているわたしに気付いたあどけない幼子。
 運ばれおかれたドーナツに微笑むとその手を振ってくれた。

 応じて手を振って返すわたし。
 それに気付いて目を細めながらの老女は、二度ほどこちらにあたまを下げてくれた。
 けれど何か憶えているというようではなく、目はよく見えていないのだろう。

 その顔はわたしなどには真似のしようもない、私心を捨てて風雪に耐えて鍛えたものなのだと思う。
 黙して頭をさげてしまいたくなるような仏顔というようなもの・・

 しみじみとして見やるわたしに気付いた妻が不思議そうな目で視線の先を追う。

 わたしたちが黙したままでいると、食べ終えてはしゃぐ幼女にしわ手をひかれ。腰をかがめ、どっこいしょと席をたつ。

 そして、よちよちとして人混みのなかにまぎれて行ってしまいました。






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