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夢舟亭
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<この文章は商業的な意図をもって書かれたものではありません>

文芸工房 夢舟亭 エッセイ   2011年 12月 03日


    映画「セラフィーヌの庭」鑑賞の記


 夜中、泥の沼を手さぐるシーンからはじまる、フランスとベルギーの合作映画。
 家政婦とでもいうのだろうか、ある画商の私邸の家事賄い仕事に通っているこの中年の独り暮らし女性が、なぜそんなことをしていたか。
 されがこの作品の主題だ。けれどこの時点で観る者には分からない。

 アパートの部屋に独り住む働き者のこの女性セラフィーヌには密かな趣味がある。
 自己流の絵を描くことだ。
 けして暮らしに余裕があるわけでもなく、まして高い教育を受けたわけでもないけれど。画材もキャンバスも無いのに、絵を描くことを楽しみとし、人生半ばを過ぎたいま生き甲斐になっている。

 そんな彼女の隠されたままの楽しみを、ある日賄い仕事の依頼主である画商が知る。そして驚く。

 ・・・と映画のストーリーをあまり説くのはよろしくないので、ここまでとするけれど。これは実話であることはことわっておきたい。
 そしてフランスのセザール賞や全米映画批評家協会賞ほかを得ている。

 地味な名画というものはいつの時代も目立たないのが常だ。けれどその感動は見終えてからしばらく、ときには心に長くのこり、生涯の教訓や師となり示唆も与えてくれる。
 わたしには、映画「セラフィーヌの庭」もそういう種類の作品だ。

 名声、著名有名な立場には経済的富みがついてくるものだ。
 けれどその才能が知れ渡るにしたがって、本来そのことに対する純粋一途な情熱を保つことが難しくなる。
 名声、人気という本質からはなれた他人が虚飾した才能評価の低減を恐れて、その維持継続に終始してしまいがちだからだろうか。

 そういうもの一切にこだわらず、貧しく乏しく陽の当たらない環境のときの情熱を、傾けつづけることは、人間という生き物には難しいことなのかもしれない。
 たとえ、富などを得たいがためでない情熱の結果であったとしても、である。

 誰しも一度味わってしまった豊かさや栄光はけして手放したくあるまい。そうした思いはごく人並みのものであり、誰も責めることではないだろう。
 けれど、そうした達成し極めてしまった姿には、案外ほとばしる輝きが乏しい気がするのはわたしだけだろうか。

 歴史上の人物などもまた、苦しく険しい坂や崖を必死無我夢中で這い登る姿の時がまぶしく胸をうつ。
 ときには、せっかくの今までにない価値ある目標を成した途端に、いままでの輝きが失せて見苦しい自席保持、我田への引水をはじめる。既得権益者の一人になる者までいたりする。

 名声を得た先で、そういう道を歩まない才能はといえば、おのれの名声人気に押しつぶされるという人もある。
 先日観た「ラフマニノフ 愛の調べ」(ロシア映画)で語られるのがそちらだろうか。
 今にして高級ピアノであるスタインウェイ社の支援を全面に受けながら、好評に次ぐ好評のアメリカ演奏旅行。だがそれを苦にして気持ちが参ってしまう様子があった。
 もっともっと有名になり富むことが出来るのに、それを拒否するのである。

 この映画の主人公は、悪徳の人ではないのだけれど、やはり独り密かに描いていた頃がいちばん輝いていたのではないだろうかとおもうのだ。 .







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