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夢舟亭
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エッセイ  夢舟亭    2008年12月11日


    幸せ者



「アクターズ・スタジオ・インタビュー 」というアメリカのTV番組(NHK-BS放映)をよく見る。

 これにはこれまでに素晴らしい作品を生んだハリウッド系の俳優や監督が出演する。
 私が見たのでは、クリント・イーストウッド、ジャック・ニコルソン、ピーター・フォーク 、アル・パチーノ、ダスティ・ホフマン、ジェーン・フォンダ 、フランシス・フォード・コッポラ、メリル・ストリープ、ハリソン・フォード 、メル・ギブソン、ステーブン・スピルバーグ、ロビン・ウィリアムス、ロバート・デ・ニーロ 、シルベスター・スタローン、ケビン・コスナー、トム・クルーズ、ブルース・ウィリス 、トム・ハンクスなどなど、見事な顔ぶれだ。

 それらのゲストへ、この番組を主催する俳優学校「アクターズ・スタジオ」の副校長が、一対一でインタビューする。
 思い出の名シーンを見せながら、生い立ちから裏話などを訊いてゆく。
(エッセイの「映画ゴッド・ファーザー」もその鑑賞記)

 ユーモアあふれるやり取りもあれば、なかなかの苦労人の素顔、親や兄弟へ感謝の思い、あるいは恩師や人生の岐路となる出来事。
 そういった話が彼ら自身の口から飛び出す。

 その対話を、映画産業界へ飛び立とうとして学んでいる当校生徒たちが、会場で聞き入っている。
 生徒らにはゲストへ質問できるという幸運が最後に待っている。


 最近見たら、ポール・ニューマンだった。
 おそらく当番組初めのころのものの再放送なのだろう。映る顔が若い。
 後半にロバート・レッドフォードと私的に語り合う場面が付いていた。

 ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードといえば「明日に向かって撃て」。
 米国の明治期とでもいうべき、時代の変化期のドラマだったと思う。
 時代の波に乗りきれずにあぶれたガンマン二人の話だったように覚えている。
 英米で賞を得た名作だ。
 不釣り合いかと思えるバート・バカラックの曲「雨に濡れても」。あの名曲が流れたはず。

 二人はこの映画の監督の紹介で初めて出会ったとか。
 先輩後輩として尊敬を抱きつつ、切磋琢磨の仲だという。
 ニューマンが10年ほど先輩。
 今ではかなりのお歳だ。

 先輩ニューマンは、知名度を活かして薄利だというがドレッシング会社を、老いて興したと微笑む。
 また、仲むずまじい奥さんは俳優であることもあり、夫の協力で住まいのある地元に古風な劇場を再建した。
 欧米演劇の基本は今でもステージで演じることから始まるのだ。

 一方、ロバートレッドフォードは、知る人ぞ知る「サンダンス映画スタジオ」という俳優養成学校を自費で設立した。
 カナダ方面のスキー場を買い取って手を加えたとか。
 きわめて風光明媚な高原に建つ、最新映像制作設備のある館のようだ。

 サンダンススタジオへはNHKなども協賛していて、世界に作品企画を募っている。
 そして資金援助のうえ、良い作品を完成させている。
 毎年ニホンからもアジア各国からも若手監督が応募しているようだ。
 NHKのページなどにレッドフォードの顔とともに案内と作品の紹介を見たことがある。
 類は友を呼ぶのごとく、考えに共感共鳴して奮起する士が集うのだろう。

 一見華やかな世界に見える映像世界で生き抜くためには、自分を失わないことだと二人は言う。
 自分を失わない、ということは楽なようで難しいと思う。

 とくにこの二人の場合は超がつくほどの人気者で売れっ子だ。
 並の人間ならば浮かれ舞い上がってしまうだろう。
 金銭的にも溺れてしまいそうだ。

 そんなニューマンがしみじみと、「才能だけではだめなのだ」という。
 ヘタに才能などあると、それに頼って過信して向上意欲を失うのだと。
 自分には才能が出来上がってしまってすでに存在するという気になる。もうこれで充分だと。

 だからひたむきに研鑽しようという気などは起きないようだ。
 そういうふうにして消え去った才能の者をどれほど見たか知れない、と。
 一時の花火で終わらないで存在感を失わない人の重い言葉だ。


 この言葉を聞いていて私はある作家の言葉を思い出した。
「ボヴァリー夫人」のフロベールと、「女の一生」のモーパッサン。19世紀末フランスの作家だ。
 かなり前に読んだ気でいたがほとんど憶えてなかったので、再読したばかり。
 なかに「小説について」というモーパッサンの文章があった。

 モーパッサンはフロベールを師と仰いだ。
 じっさいに師事を受けたようだ。
 自作をフロベールに見せたとき、君に才能があるかどうかは分からないと言われたらしい。
 思えば賢明な先生だ。

 そのとき「才能とは長い忍耐でしかない」と加えられたという。
 書き続けたまえ。これしか向上の道はないのだからと。


 私たちは、才能、と聞くとき、生まれながらの天与の才能、遊んでいてもさらりとやってのけては見事なまでのものを生み出す、天分をイメージする。

 努力などして生み出すような者は天才といわない。苦労のすえにどうにか生み出すような者などは、しょせん・・と吐き捨てるような言葉も目にしよう。
 そんなときすっかり怖じ気づいてしまうことを、どんな分野の人も経験していないだろうか。

 でも、天才のような名優や偉大な作家は、自分を見失うことなく向上に努めるしかない、と言う。

 そういえば現代のプロスポーツのある監督も、「頭角を現すヤツは練習量が違う。練習を一心に続けられること、それ自体が才能なんだ」とわらったのを見た。

 一心に続けられるヤツ。
 そこには、ややもすると、頑張り、というような苦しさを想像してしまう。

 けれど、じつはそうではないのではないだろうか。
 苦しみというがその意味が根本的に異なるのだと思う。

 ただ苦しいだけなら、他人に自由を束縛され苦痛を与えられる拷問のようなものなら、続けられないのではないか。

 そうではなく、じつは本人にとってこれほど愉快で躍動する喜びの時はないのではないか。
 だから傍目からは苦しく見えても、辛そうでも。
 没頭し、打ち込む意味を自覚できることであるなら。
 続けることができるのではないかと思う。

 いろいろ調べて、考えては、いっそう工夫して、試行する。
 失敗からは学び、さらにまた試す。

 やればやるほど変化し向上が実感できる。それが喜びなのだと思う。
 それをしないでは居られないほどに好きなことになっているのだろう。

 好きとはいえ、誰もが名をあげ偉大なるものを生みのこせるわけではない。
 世界にはスターというほどに星の数ほど、無限に志す者秀でた者はいるのだ。

 けれどもしかし、そんなことは他人事として、元々眼中になく。
 目の前を見て一歩一歩の進展を確認しては喜び。
 ひたすら精進する気持ちを緩めることなく。

 そういう生き方がおのれの生を実感する習性となってしまっている人がいる。
 自分の道を見失わないで生きることが自分的スタイルとなっている人がいるということだ。

 成果はおいても、そういうふうに生きられる人こそ、なによりの幸せ者だと思う。


 ところでアクターズ・スタジオ・インタビューではゲストに必ず同じ質問をする。
  あなたがもしも生まれ変わって別な職に就くとしたら?
  あなたがいちばん嫌いな言葉は? 好きな言葉は?
 など5つ問われる。
 するとそれぞれに「らしく」も頬笑ましい一言を返してくれる。

 見ているこちらも、さて自分なら、と毎回考え込んでしまう。
 なかでとくに悩むのがつぎの問いだ。

  あなたが天国に着いたとき神に言われたい一言は?

* ご参考:アクターズ・スタジオ
アクターズ・スタジオ・インタビューBS-NHK
アクターズ・スタジオ・インタビュー(ウィキペディア)
サンダンス映画祭





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