エッセイ 夢舟亭
2007年07月14日
しょうがない!?
またか……。
原爆投下はしかたなかったというあの一件です。
この民主主義の国では、ほかにも侵略だとか植民地とかの戦後処理、靖国参拝や謝罪論、慰安婦、産む機械などなど。
物議をかもした言葉がありました。
またかという意味は、政治家の発言にふくまれた言葉を、マスメディア報道陣がつかみだし、政敵が突き上げて。
論旨補足の機会も与えられず。
言葉を狩りあげられ、斬り倒される繰り返しが起きることへの疑問です。
私はどの政党へのこだわりもしがらみもありません。
ですが、万一の誤解勘違いによる判断があってはいけないとの観点から、答弁釈明の場をもって確かめるべきではないかと思うのです。
裁判ならたとえ凶悪犯罪者であったとしても、当然しかるべき手順を経て裁定が下るはずですから。
大臣といえど、即辞任への追い込みというのは酷い話です。
この動向に疑問の声が聞こえないで、みんな賛成異議なしに偏ってしまった。
これは危険な社会の様相ではないでしょうか。
他人の意見を聞けば異論も反論も湧くでしょう。
人間は議論する生き物でしょうから当然です。
少なくとも国家の大臣までなった人が、思いを話したというなら。
疑問は訊きなおしてみようではないかと思うのです。
まさか報道のように、大臣ほどの人が被爆者をないがしろにする思いをもって口にしたとは思えないのです。
話の流れ、言葉のならべ方によっては、思いの伝えミス失言などよくある話です。
言葉の使い間違いなどは誰にでもあるのですから、そこだけを切り取るなどは、追及というより揚げ足取りか虐めです。
言葉は思いの百パーセントを伝えきれないものです。
そこで喩えや例をくわえたりするわけです。
さらに不明確なら質っし問いかけながら、確認理解して行くべきです。
一言の過ちも許せないというなら、この国では恐くて口を開けません。
そもそもメディア関係者に問答無用と下すような権利があるのだろうか。
私には、あのマイクとカメラが突き進む群れが、自由社会を壊す異様な集団に見えるときがあるのです。
言ってはいけない、触れるべきではない、という狂信的な声を発信することは、民主主義社会で許し難い状況ではないかと思うのです。
そういう形のメディアのじつに大人げない断罪報道はもう飽きあきなのです。
ところで、今回は戦争終結のきっかけとしての原爆投下の私的見解のように思われました。
となれば、真実なところ、いつわらざる辺り、という次元で。
国内にも種々の論があるように思えるのです。けして一色ではないわけです。
私などが書くまでもなく、先の大戦は数百万の同国民の犠牲をもって敗戦を向かえたとされます。
当時日本列島の主な都市は、敵の空爆空襲でめった打ち。
市民とともに徹底延焼破壊され尽くした。
そこへさらにだめ押しのあの原子爆弾投下。
現代においてさえ最強のあの爆弾は、イラクや隣国の脅威としても恐れられました。
その脅威によって世界に不安のなかの秩序を保っているのも事実です。
それほどの威力によって、あの日あの時の投下により。
日本市民の生活の場を爆破焼失せしめたのでした。
その被害数十万余の命と後遺症はあまりにも痛ましいかぎりで、今に尾をひく生存の方々にもご家族にも、皆が等しく悲しみを抱くわけです。
この点を前提にした意見だったのであれば、戦争終結のきっかけとしての一つの意見として、聞けない話ではなかったろうと思うのです。
一つの意見として、内心どこかであの二発の強烈さに完敗を感じたとしても、さほど無理のある論には思えないのですがいかがでしょう。
そう思うことがなぜ犠牲者を無視した意見ということになるのでしょう。
甚大な被害を与える敵の強力さを骨身に浸みて味わったればの敗戦は、やもうえないとする事実関係の認識が、犠牲者被害者の方々を侮辱しているという図式になるとは思えないのです。
少なくとも日本国内の市民は、あの原爆の犠牲者のあまりの多さを目の当たりにして、伝え聞いて。
その威力に、ぶったまげた。
勝利に導く神風は、もうけして吹かないだろう。という敗北を認めたのではなかったでしょうか。
また、あれが無かったなら、敗戦を自ら宣言できただろうかと思うわけです。
あれがなかったら、もっともっと本土内においては、奮い立ち狂気の様相を示す市民が刃向かって抵抗を示し、めった打ち殺傷惨殺のシーンがあっただろうと思えるわけです。
なぜなら全国民に、本土決戦、本土玉砕と教練してきていたのではなかったか。
それが自ら敗戦を認めることなど出来たか。
沖縄の記録を見聞きするにも、もう止めよう降参しようなどという声が内から出たとは思えない。
おれ一人でも仇を討つとゲリラ集団を組み、全滅するまで竹槍突撃から自爆自滅強制まで考えないではいられないのです。
それほどにも日本国民は必死だったということではないでしょうか。
そんなことで時間が流れて犠牲者を増やしているうちに、当時の大国が首を突っ込んできて、今ごろ東京に東西分断の壁が、などといらぬ想像にも及んでしまうわけです。
想像ついでにいえば、敵の思惑を思えばこんな状況で手間取って犠牲を増やしていられないと、最強の決定打を講じたというのも、けしてうなずけない話ではない。
となればあちらだって「しかたなかった」という言い分でしょう。
なにせ事は国同士の人殺し合戦としての戦時中の話なのですから。
再度申せば、この話は一般市民の多くの犠牲者へのいたましい思いと哀悼の気持ちを前提にしてのことです。
それにしても、正直な思いを「言ってはいけない」と、言葉尻を切り出して口封じして闇に葬ってしまう姿はあまりにも幼すぎます。
なぜそうなったのか、ではこれからどうすれば良いというのか、という問いに進んでこそ高次元な報道の姿勢ではなかろうかと思うのです。
亡くなった御霊だって、犠牲者というからにはより良くなるための礎になってこそ意味がある。
覆い隠さずに冷静に議論して、素晴らしい国になって欲しいと思っているのではないでしょうか。
ただ泣き濡れたままで一切口にしてはいけないとは思えないのです。
報道関係者は、いつも反省はなく。
背後に大衆の「知る権利」を掲げる。
一視聴者のこのような意見は聞かず、勝手な問いつめをしては、一方通行の特権を用い、視聴者を煽り焚きつけ賛同させてしまう。
論じ交わすこともなく政治家を叩き、結果的に政治そのもを動かしてしまう。
よって貴重な血税を使い政治経験を積み上げた政治家を使い捨て廃棄するように、またしてもマスコミ広場に引きずり出して、首をおとしたわけです。
思えばこのことは恐いと思うのです。
政治にもの申すことは民主主義のなかではけして無くしてはいけないのでしょう。
だが、ややもすると民間の報道機関が権力化して、市民の声や思いをねつ造創作して巻き込み、横暴をはたらくというのは困ります。
もっとも政治家の側も、一国の国民を代表するというなら、マスメディアの打ち出す論の矢や槍をねじ伏せるのも必要能力だと思います。
論で闘えない政治家というのもふがいなくじつに情けないことではあります。
ましてやマスメディアに切り替えされれば破滅だとばかりに尻込みして、リスク対策としていい顔して迎合するのはとても頂けません。
さらに持ちつ持たれつ相合い傘などは論外。
せめてIT時代の手段を講じてもおのれの主張をしっかり表明してほしいものです。
こちら市民としては、刺激あるニュースを追い求める報道も、虐めメディアに平服する政治家も、いかに見抜くかが大切なのではないでしょうか。
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