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 夢舟亭  エッセイ   二〇〇七年 一月 十三日


   損失


 気付いたことや目に付いたことを、薄っぺらなメモ帳に書きとめている。

 そのメモネタを見ては短文にして書きつづる。
 もう何年つづけているか。ノート冊子連番は3桁になってだいぶ経つ。

 このメモの、書き忘れがよくある。
 歳のせいもあってか、物忘れも手伝って。
 とみに回数が増えるので困る。
 ほんの数分前の「思い付き」や「見出したこと」を忘れてしまうのだ。

 見聞き風景のなかに、何ごとかに気付いて。
 いつも肌身離さず持ち歩いている百円ノートを出しそびれる。
 そこでせっかくのネタを失ってしまうことがあるのだ。

 手が空いたら、あるいは一息ついてからメモろうと間を空けるのが、いけない。
 それは人前であったり、誰かと同席のとき。
 あるいはクルマの運転中など。
 少なくとも即メモするにはちょっと唐突で場違いな瞬間が多い。
 だから憶えておいてメモろうと、後まわしにしてしまう。

 考え続けていたことが、ある結論めいた自分で納得のことに思い当たったりする。
 また、何気なく見まわした風景や出来事から、面白いことを連想して。
 ふと思い浮かべ視点や考え方。
 目の前の人との会話とは、まったく別なことを見出したりする。

 まぁそういうことは誰でもあるのだが。
 そういうものは時も場所も選ばないで湧きだすものだ。
 外面からは、そういう思考の活動が今作用しているとは分からない。
 だが、それを長く記憶しようとして、文字に残そうとすると。
 書くという行動を起こさなければならない。

 今できないからと、人目に付かない時にしようと遠慮や気遣いなどして。
 貧しき脳の記憶に、しばし頼る。

 ところが「5分後の自分は他人」なのである。
 このところは3分間も保たないで、他人のあたまに変わってしまう。
 つまり忘れ去る。

 なかには記憶の天才のような人がいるもので、ほとんど書いて残さない。
 紙片などに二三度書き殴り暗唱する。そしてすぐにその紙を破り捨てるのだ。
 小さいときからそういうことを身につけたという。

 私の場合はそんなこととても出来ない。
 そこで、なかなか面白い思い付きだとか、深い洞察だわいと。自画自賛のそのわずか数分のあとに。
 見事なまでに、忘却の海へ溶けこんで見えなくなってしまうのだ。

 その思い付きがいったい何だったか、忘れて思いだせない。
 ときには何か見いだしたということさえも、綺麗に忘れて過ぎていたりする。
 そういえば何か気付いて書こうとしたがと気付くと、釣り落としたその魚は、とっても大きな獲物だったように思えて悔しい。

 ごくまれに、暗闇の海からふいと再発見できたときはひとり嬉しい。
 寝床で、あっと思い出すことも極めてまれにある。
 だがたいがいは再発見できずに終わるのだ。

 そんなだから、ひょっとすると知らずに同じ思考ルートをまた通って。
 小さな私的発見に、再度たどり着いていたりするのかもしれない。

 数百年前に生きて、また生まれてきたとするあの輪廻転生も、あんがいそんな生命再生の路なのかもしれないではないか。
 本人が気づかぬまま、再生の道をたどっているのではないだろうか。
 となれば過去地上にあって、生活したという記憶は当然ないだろう。


 メモの惜しい思いは、もう一つある。
 せっかくのメモが、書いたのに判らないケースがそれだ。
 最近これもかなりある。

 気付いて思ったそのときは、自分はなかなか面白いことを考えるやつだ、などと思って夢中でメモする。
 なんらかの説明短文にまとめてメモる。
 そこまでは良い。

 だが昨今、パソコン文字生活に慣れ過ぎか。
 メモ文の略しかたが、一段と簡略をきわめて、じつに分かり難くなってきている。
 あとでメモ帳を開くと、何を言いたかったのか、その略した言葉の意味が分からない。
 思いだせず、メモが役立たないのだ。

 また、せっかく書かれたメモ文字そのものが、読めないのもある。
 歩きながら、あるいはドライブ中の信号停止の、ハンドル微動に揺れて。
 書いたミミズ字は、メモ紙面を斜めにしたりひっくり返しても解読できない。

 あぁ何という損失か。
 地団駄踏んで悔しがるが、もはやあとの祭り。


 そうしたメモ癖で、たとえば「損失」のメモ字からここまで思いだして書けたが。
 ひとまずメモは成功としようと思うのである。

 うむむっ?
 待てまて。
「損失」のこのメモは、ホントにこういうことの意味だったか……。




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