<この文章は商業的な意図をもって書かれたものではありません>
エッセイ 夢舟亭
2007年11月17日
シンフォニックなポピュラーミュージック
クラシックから見ればポップスとかポピュラーミュージック(大衆音楽)というものは、ときに軽く見られたりする。軽音楽という日本語表記もあるくらいだ。
とはいえポピュラーに知れ渡った音楽といえど古典的な名曲はある。
ちなみに古典とは古い音楽という意味ではない。
生みだされたのは昔だがそれだけではなく、いつの時代にも通じる良さがあるとされるものだ。
なにせ長い年月愛されてきたからには、多くの人が認めて聴き継いできた。そういう評価風雪を生き抜いてきたということになる。
いつの時代にも通じる良さというなら、現代の作品にもこの尺度を当てはめることは可能かもしれない。つまり生まれの新しい古典的価値の現代の曲が。
ただ長い間に聴き継がれるという実績を確かめられない。
そこで言葉通りに古い作品が中心になるということになるのだろう。
そうしたクラシック曲を演奏する大編成の交響楽団もまた長い間の歴史や伝統の所産なのではないだろうか。
華麗壮麗なそうした管弦楽団の演奏で、ポピュラーミュージックを味わうという贅沢な楽しみがある。シンフォニックなポピュラーミュージックがそれだ。
シンフォニックムードミュージックなどともいうようだが、これはポップスオーケストラとは異なる。
つまり演奏はクラシック畑の演奏団体オーケストラであって、ポピュラー曲専門の名のある演奏団体ではない。
夏期ヴァカンスシーズンのオフ期。欧米では著名なクラシックオーケストラが野外で気楽なファミリーコンサートをやって、市民にサービスするという。
そういうもののほかにも、著名なオーケストラが某しポップスオーケストラとして、レコードやCDのアルバムを創っていたりする。ボストンポップスオーケストラなどがその例。
そうしたスタイルの、豪華な演奏スタイルはスペクタクル映画のサウンドトラックでよく聞かれる。
大所帯100名にも及ぶシンフォニックな演奏者たちの手により、1曲数分間のポピュラーミュージック集。それがはたして採算とれるほど喜ばれるかとなれば・・疑問はあろう。だからその企画は少ない。
日本でもきわめて少ないと思う。近年では日本フィルハーモニーオーケストラの日本の叙情歌集シリーズを聴いたくらいだ。
だがクラシックを得意とするプロ集団オーケストラが、耳慣れた俗で軽いとされるあの曲この曲を、編曲を練り華麗な音楽に仕立てたときのものはさすがに素晴らしい。
ポピュラーなあの曲が、見事な装いの交響曲に生まれ変わったりする。これは交響曲を聴けばいいではないかというのにはちょっと違った楽しさなのだ。
編曲の妙味こそはポピュラーミュージックの醍醐味だとあらためて感じる。
そういう演奏のレコードで、私が聴いたポピュラーミュージックのシンフォニックお薦めの名手というなら。1913年ロンドン生まれのスタンリーブラックをあげたい。
彼の編曲指揮によるロンドンフィエスティバルオーケストラ。「フェスティバル」を除いたロンドンシンフォニーオーケストラ(交響楽団)が実体といわれる。
スタンリーブラックは幅広いジャンルを料理するインテリな名手で、英国の王室付きの音楽教師でもあるとか。
スタンリーブラックと彼のアメリカンリズムスという、ラテンコンボを仕立ててピアノをころころ弾いているのを聴いたことがある。曲域の広さからタンゴはもちろん八木節や会津磐梯山など日本の民謡も軽快に聴かせる。
そしてスクリーンミュージックは作曲もこなす。中規模なオーケストラをバックにピアノを弾きながらの演奏もなかなか哀愁があって良い。
そこで今回の、シンフォニック・ポュラーミュージック。
壮麗でスペクタクルなのに、味わい深いのが手兵ロンドンフィエスティバルオーケストラとの演奏。60年代にシリーズ化され特上なLPレコードアルバムとして、何枚か出たのを当時むさぼるように聴き入ったのが、今懐かしい。
新進のデジタル機材装備の今なら、さぞ豪快にして繊細な彼の編曲指揮が活きたことだろうと惜しむ。
彼の編曲はオーケストラに混声合唱団を加え、オーケストラの楽器のバラエティさと音量域を存分に活かした演奏となる。
200名にもなる演奏集団を活かすシリーズのアルバムは世界中の曲をとりあげてくれた。私が知っているだけでもエスライル(ユダヤ)、フランス、ロシア、アメリカほか各国古謡民謡。そしてミュージカルやスクリーンミュージックとさまざま。どれも彼流のシンフォニックな料理としてしまう。
60年代のステレオ・オーディオブーム華やかな頃。各メーカーがホールを貸し切りレコードコンサートを催した。
そうした折りにスタンリーブラックの壮麗なシンフォニックミュージックがよく掛かり、会場の大気を圧倒していた。
しばらくぶりに、手元にあるもののほこりを払って聴いてみたい。
【ミュージック・オブ・ピープル】から「ハバナギラ」。これはオープンテープ4トラック直輸もの。
内容はユダヤ民族の音楽集。
スタンリーブラックの真骨頂、スペクタクルでダイナミックなシンフォニックサウンドが、導入部からとどろき渡る。全強音で、ザザザァーン。
間をあけずラリラリ、リラリラと左右に居並ぶ弦楽器群がざわめき広がってゆく。
ラン、ラーリララ。ラン、ラーリララ、ラン、ラーリラ、ランラーリラと耳慣れたメロディー、ユダヤの「ハバナギラ」が奏される。
弦群の強奏がうずまき、ブラスが高鳴り、ティンパニーの打音が場を圧し、男声合唱がハバナギラと歌いあげる。
そして静寂。
弦の中音部が厚くハバナギラのメロディーをまた始めると、合唱にあわせて手拍子と打楽器が加わる。まるで燃え立つような民族大讃歌となって迫る。
【ロシア】というこのアルバム。聴くのは「メドーランド」、別名ポーリュシカポーレ。
ドラマチックに男声コーラスが場を圧して叫ぶようにハミング。
渦のようなオーケストラの強音のなかで、シンバルが炸裂する。
そして静まる。
再度、寒々とした大地からわき上がってくるのは、またもや男声コーラス。
弦楽器の強音と男声が分厚く層をなして、きらめくブラスが激しい生気を含んでしばし乱舞。
と、眠るような弱音にかわり、夕闇がおとずれるなかに鐘の音が響いてゆく。
再々の盛り上がりから終曲に向かって、ロシア風の調べを合唱が高らかにドラマチックに歌いあげる。
ほか「二つのギター」「黒い瞳」も聞き慣れたそれぞれが格調高く正装して圧倒する。
【ミュージカル】からレナード・バーステタインの「ウェストサイドストーリー」。
先年新たな振り付けで再上演されたとか。ミュージカルになくてはならない歌声に混声合唱を駆使して。そのほとんどをハミングで盛り上げる。
ときに、マンボ! アメリカ! イヤッホ〜! と気勢をあげながらの若者の沸き踊る様子が見えそうだ。
いつの時代も噴き上がる若いエネルギーは押さえきれず。ときに不満となって暴走する。
トラブルが起き、サイレンが響いて。ホイッスルが鳴りわたる。
次に「マイフェアレディ」。
良く知られた「一晩中踊れたら」のメロディーが流麗に流れ出してこのミュージカルの曲が次々にあらわれるメドレィー。
女声コーラスがシーンの替わりを。男声コーラスが「君住む町で」。それへ女声が再度加わる。
「スペインの雨」から愉快げに華やかに。
鐘がなり「時間通り教会へ」とかわってゆく。
「あの顔に慣れてきた」ヒギンズ教授の複雑な顔が見えそうなのだ。
次に【スクリーンミュージック】。
開始は「アラウンドザワールド」。痛快な「八十日間世界一周」の映画化そのテーマと劇中の曲の数々。
奇想天外な世界旅行の各シーンを彷彿とさせるスペクタクルな音響大伽藍が繰り広げられる。
ときに映像以上のリアリティを感じてしまうのが痛快で楽しい。オーケストラサウンドの極みここにあり。
そして「ベンハー」。
ブラスからのドラマチックな導入部。
弦楽器群が愛のテーマで引き継ぎ、つややかに奏する。
映画各シーンの曲が次々に、あの大映像を彷彿させてしまう編曲と演奏。ただ圧倒される。
ローマ軍列シーンだろうか、レスピーギの交響詩のようなダイナミックさがある。
かと思えば宗教的荘厳さを感じる女声コーラス。
そして地を揺るがすようなブラスの唸りとなって、フィナーレは強奏のオーケストラに混声の大合唱が、ハレルーヤ。
ティンパニーとシンバルが締める。
「アラビアのローレンス」
ひりひりとした高めの弦弱音は、熱砂かげろうの地平を表現しているのだろうか。
そこへダン、ダン、ダ、ダンダダダン。
テンパニーの連打。
一瞬の間をおいて、例の、りーららー、らりらららー、りーららー。
テーマのメロディーが流れる。
ここで開演ステージの緞帳があがってゆくような印象さえ受ける。
そして広漠たる砂漠のローレンスの活躍を物語ってゆくところは、コルサコフのシェラザードにも思えるアラブ調。
−−と、スタンリーブラックのどの編曲指揮演奏にも共通にいえるのはシンフォニックなダイナミックさに尽きる。聴いていて気を休める隙がない。
このオールマイティな音楽家はほかのどの曲も、ちょっと聴きでなど済まさせてはくれない。
ダムの放水のような徹底した迫力交響楽の渦に飲みこんでしまう。
知られた曲よく聞かれる歌ポピュラーミュージックだからという手抜きは感じられない。
数分間で一遍のドラマを語り尽くそうという編曲となっているようで、興奮なしに聴くことができない絢爛豪華な音の大スクリーンをイメージさせる。
ということは・・聴く部屋と鳴らす機器を選ぶとも言えそうだし、音量ヴォリュームも非日常的に奮発したくなるのはやもえない。
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