夢舟亭 エッセイ 2006年06月17日
小品小曲のたのしみ
小品、小曲。
というような曲ばかりを集めたCDなどがある。
私も幾枚かもっている。
聴いてみると、好きなあのメロディーが嬉しい。
そんなとき、はたして何をもって小品小曲として区別したのかと思うことがある。
有名なそれらの曲にも作曲者にも、ちょっと失礼ではなかろうかという思いからだ。
小品とか小曲といえば、たいがいは楽曲のその長さ、つまり演奏時間の短さからだろうか。
また全曲を通せば大曲であっても、聴き覚えやすく印象に残る楽章があって、そこを抜き出して、言ったりする。
らりらん、らりらん、らりらんで始まるモーツァルトの交響曲第四十番の第一楽章や、らーんら、らーんら、らーららららりら、らーらーんのピアノ協奏曲二十一番の第二楽章。
あるいはスメタナの「わが祖国」から「モルダウ」。
ドボルザークの交響曲第九番「新世界から」二楽章目などは定番だろう。
そうしたものをファミリー名曲集とか、ポピュラーなクラシック集と銘々して。
編纂企画されて、楽しめるCDは多い。
近年では、快い「アダージョ」シリーズが有名。
ほかにもピアノ曲シリーズなどが、各メーカーから出ている。
またクラシック調の映画音楽。
あるいはCMに使われたクラシックなど。
どんどん盤を増やしているようだ。
私などがいうまでもなく、音楽はその時間的長さが聴く者の心をとらえたり、味わいや深さと比例するわけではない。
いや、優しい曲調で、耳に優しくて有名になっている曲ほど、短い。
そして印象深いものだ。
だからここでいう小品とか小曲とは、けしてお手軽な意味ではない。
小品小曲としてはまず、ベートーヴェンの知られたあの曲をあげたい。
タラタラタラ、タラララ〜ン・・のあれである。
「エリーゼのために」
聴かれて、演奏されて。
あるいはポップス曲の「情熱の花」として流用リメークされている愛らしいあのピアノ曲だ。
これを演奏したいが為に、ピアノの鍵盤に触れた人の何と多いことか。
わが国を楽器生産数最大の地位をたしかなものにした曲。
どんな団地の階上へも運び納められた点で、産業人といえど恩ある曲かもしれない。
鍵盤に自信のある方なら弾いた経験がお有りだろう。
そして発表会のステージに立った経験も・・。
エリーゼのために、がピアノなら、禁じられた遊び(ロマンス)はギター。
これもまた、この曲を弾きたさにギターを買い求めた人は多いはず。
ところが難しいんですよねぇ。
ベートーヴェンが苦悩の大作を生む合間に、どういう思いつきで「・・・の為に」と、女性にささげる小品を生み出したのだろうかと思う。
エリーゼのために、が出たとなればもう一曲。
乙女の祈り、はどうだろう。
このピアノの小曲の作曲者はテクラ・バダジェフスカ。
美しいこの一曲で、楽聖ベートヴェンと五分の勝負をしている。
そう思えるほどの、これまた愛らしい名曲だ。
名を残す、とよく言う。
だが私など凡人は死ぬ数分後に永遠に忘れ去られてしまう。
だからたとえ「この一曲で名を残した」となど言われたとしても。
世界中に知れわたるこの一曲を時代を超えて残すなら、偉業に変わりはないと思う。
次にあげたい名曲は、ドナウ川のさざなみ(イヴァノヴィッチ)。
マドンナの宝石、の間奏曲(ウォルフ・フェラーリ)。
この二曲は、私のなかではいつも対になっていて、別なCDなのに必ず続けて聴く。
どんどん独断の基準であげることになるが。
真珠採りより「耳に残るは君の歌声」(ビゼー)
オペラ椿姫から「ヴィオレッタに捧げし歌」(ヴェルディ)。
ヘンデルのオンブラ・マイ・フ。
マスカーニのカバレリア・ルスティカーナの間奏曲。
エルガー愛の挨拶。
ショパン別れの曲。
カノンはパッフェルベル。
ベートヴェンの月光。
ドビュシーの月の光。
ワルツ王ヨハン・シュトラウス二世のワルツも良い。
美しく青きドナウ、皇帝円舞曲、ウィーンの森の物語。
そして、金と銀はレハール。
タイスの瞑想曲。
アルビノーニのアダージョなどなどと際限ない。
ああ・・・なんと多いことか。
そこで見方を変えて。
美しい曲となれば女性を思い浮かべるが、優しい母性を歌ったまるでルネサンス期のラファエロの聖母画の様な、子守歌はどうだろう。
知られた曲に、モーツァルト、シューベルト、ブラームス、ショパン、と大物が並ぶ。
音楽でも、親子は時代を超えた永遠のテーマなのだろう。
子守歌ならメロディーメーカーであるチャイコフスキーにも生み出してほしかった気がする。
いや、有るのかもしれない。
しかし彼には、優雅なバレエ曲群がある。
「白鳥の湖」の2幕目の「情景」。これに勝てる有名にしてこの人の素晴らしい小品はないと思う。
眠りの森の美女、にも、くるみ割り人形、にも、可愛い曲は多い。
しかし総合点では白鳥の湖のこの情景に及ばない気がする。
真っ赤な大輪のばらだろう。
小曲というと数分間の楽しみになるが、古謡民謡の類も見逃せない。
グリーン・スリーブス、はクラシックに編曲(ヴォーン・ウィリアムス)。
すでに名曲の仲間入りをしているし、ロシア民謡の黒い瞳、トロイカ、ボルガの舟歌もあまりにも多く演奏されている。
またアメリカから、ロシアのトロイカ、ボルガの舟歌に対する曲としてなら、オールド・ブラック・ジョーだろか。
フォスターの曲だ。ほかに、故郷の人々(スワニー河)、ケンタッキーのわが家、夢見る人(夢路より)が良い。
そういう意味では日本の「さくら変奏曲」(宮城道雄)も「春の海」とともにあげたいと思う。
私はあまりにポピュラーで皆が耳馴染んだこうした曲を、聴かずに避けていた時期があった。
ここにあげた曲のほとんどを聴かないでいたのだった。
そんな小曲に貴重な時間を割くことはないなどと恥ずかしくも思っていた。若かったのだ。
だからさほど無い持ちレコードにも加えず。
ラジオやテレビ放送でも聴かずにいた。
そしてそれらはポピュラー曲として聴いたものだ。
大曲として最上段に構え、燦然と輝いている曲こそが聴くに値する。
大曲とがっぷり組んで七転八倒することが、音楽を味わうことだなどと思っていたのだ。
だが人生も残り少ない辺りにきてみるとそうした肩の力も抜けた。
皆が良く知る小曲にこそ惹かれる様になった。
これらの小曲が醸し出す和み気分にこそ惹かれるのだ。
挑まれるごとき大曲のエネルギーや、それを受ける覚悟に疲れるということもある。
だが古今東西の皆に愛聴されてここまできた小曲の親しみ易さにこそ耳傾けたくなる。
それら万人に愛された楽音に日々の疲れを癒すとき。
世界の片隅の限りない数の人々に、何年もの間に聴き継がれてきた曲調にこそ惹かれる。
そしてこうした曲を愛したであろう今は亡き人々の微笑みや、ごく普通の市民の数々の生き様が見えるような気がするのだ。
そういうとき、聴く人はけして大曲にがっぷりと取り組んだふうに、人知れず掘り出したのだとこの一曲のウンチクなど口にしない。
メロディーにしぜんに耳かたむけて、うっとりして。何の気取りもなく、楽しさについ誘われて口ずさんだりするだろう。
音楽を楽しむということは、選りすぐったこの一曲を最高の演奏家に最高の楽器を与えて。
最高の管弦楽団と指揮者との組み合わせを。
最高の会場で。
たっぷりと時間をかけて。
一切の妥協を排した完全主義で・・。
などとは考えない聴き方ではなく。
聴く曲がクラシックと分類されているなどということにも無頓着に。
今耳にできている自分に満足して、充分幸せなのだという思いで心安らぐひとときとなる。
そうした聴き方で小曲の旋律のシャワーを浴びると。
過ぎし昔に生きた人々を楽しませたであろうこと。
またはこれから耳にするだろう人々に楽しまれるだろう様子。
そういうことを想像するのが楽しい。
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