・・・・ 夢舟亭 ・・・・ |
エッセイ 夢舟亭 2009年04月25日 終身雇用と年功序列 ニホンでは過去も現在もこの先も、高い能力の人が新たな道へ挑む門は常に開かれている、と思います。 より能力を身につけて転職する人を阻むものなど何もないでしょう。 ですから若い人は大いに自分の可能性を高めて挑戦して行っていただきたいものです。 そうした自由度があってもなお、平均的なサラリー労働者の立場でいえば−− 年功序列と終身雇用の考え方には反対すべきものはなにもないと思います。 より人間生活重視の欧州から見て、これは素晴らしい制度と誇って良いとの声を聞いたことがあります。 まさにそうだと思います。 この制度を超えるものはない、と多くの人が認めるなら。 どう維持すべきか、を考えるべきではないのかと思います。 不可能だ、難しいということを、良くない好ましくないこととして、すり替えてしまうのは誤りです。 それはイソップ童話にある、高い枝のブドウ房を取り損なった狐と同じ、取りのがした悔しさだけではないでしょうか。 それどころか、ここで安易に雇用関係の誤認などすれば、今後はさらに非正規労働に次いで、すべての労働が乱売ダンピング、過当競争が常識化されると思います。 短期スポットで細切れの雇用形態が定常化すると危惧するわけです。 結果として産業は低質な労力により競争力を失う。 暗黙にとはいえ、先に安定を約束されていればこそ信頼関係を保って、復興期もここまで腰を据えて頑張れた。現在工業国を誇れる産業のほとんどがそれらの結果です。 安定した労働がモラルを守り、足腰の強い国と産業を永続させたのだと、私などは振り返るのです。 誤解しないようにしたいのは、企業が安定するということと、業種が進展しないとか製品が進歩しないというのとは違うということ。 先見性のある開発や企画の力も安定してこそ良い仕事として生み出されるものです。 不況の風にあおられながら、個々人が生活の不安を秘め職の椅子取りゲームに奔走しては、力の限りなど尽くせるわけもない。 そういうと、安定の約束などは戦後のある時期だけのものだった、という声があります。 だがじつは藩政の時代から変わらないニホンのお家本位制であったのではないでしょうか。 いやその以前の、戦国の兵も城下出の者の目的意識は、一時雇いの兵より強かったのではないでしょうか。 そういう武士道にも通じる約束に基づいた結束の仕方が、江戸末期に、欧米からの植民地化を寄せ付けず、戦後の復興をかように見事に成し遂げたと思うのですがいかがでしょう。 とすれば、たとえ明確な契約はないにしても、また万一の事故は別にして。 苦境を乗り切る全員一丸の力とするときこそ、充分に発揮されたのだと思うわけです。 また、この制度は安定成長期だから出来ることだ、ともいわれる。 けれど個々の企業から見てさて、常に安定で先行き透明な時期などがあったでしょうか。 今的な原価意識で考えれば、無規制の戦後復興期こそ低賃非正規雇用、あるいは若者ばかりをつまみ食いしたい経営状況だったはずです。 でもその一線は越えもしないで来た。 強制力もないのに共存の関係をなかば無意識で守っていたわが国の経営者。 感心させられます。 そこには「たかが社員」と使い捨てても平気な人間観までは持っていなかった。 まさかそこまではできない。 そんなことはいくらなんでも人間やるべきではない。 互いの家族と互いの生活を尊重する意識。その最低線が今より高かったのは間違いない。 また人の能力というものを考えてみたとき。 「現在たった今何が出来るか」を思い浮かべる人がほとんど。 後も先も考えず、すぐこの場で役立つかどうか。 しかしこれまでになった戦後ニホンを思えば、仕事と成果は一瞬の瞬発力ではない。 贅沢など言えないである種偶然に巡り会った職場と環境に、じっくり辛抱して慣れ親しんで身につけることが出来るかどうか。 それが時代を超えた人の能力の尺度であり、目移りしたくなる情報氾濫の今でも、じつは大切なこと。 一人前とかホンモノになる近道ということに変わりはないわけです。 産業企業の組織を構成する大部分の人を、際だつ能力が必要だとか、能力に大きな差があるなど決めつけて排除しない。 人の組織を、一個ずつ組み合わせた石垣に喩えるように、多くの仕事において人は組織の一人として青年期、中年期、初老域へと経験を積み上げながら。 その時々のおのれを磨きつつ職に合わせては活かしてきた。 こうした点が、悪平等、不平等だという見方があることはたしかです。 だけれどおそらくそういう思いは今に始まったものではないのでしょう。 それは、若さにまかせた奇抜で目新しい一発ヒット型や、瞬発勝負の人を、能力者と見たがる性癖なのでしょう。いわゆるニュース性のあるヒーロー価値観。 しかしこれもまた珍しい考えではない。 けれど、単なる思いつきは、開発力や企画力そして実行力に通じるとは限らない。 世の中が若者指向とは言いながらも、ビジネスまでが軽率と機敏さをはき違えては、おぼつかない。 有限一個の命を持って長い目で見れば人は一長一短。 大差ない人間が浮き沈みながら生きる凸凹人生。 そうした人々を組織に束ねた総合力がニホン産業の原動力だと思うわけです。 いや、ニホンに限ったことではない国力かなと。 人とハサミは使いよう。 人は石垣。 人材。 などというように、一芸に秀でた人よりも、人と人の間を取り持ち、繋いで、何か成す人たち組織の力。 そうした総合力こそが結果を出してゆくものであり、世界に注目された安定的な生産性を維持し高めてきたのではないでしょうか。 そういう点から考えて、そもそも能力があるとする人と、リストラされた人。 正規と非正規とに、いったいどれだけの能力差があるのか、ないのか。 どういう尺度で人を測っているのか今どきの能力主義。 私はその点に大きな疑問を感じます。 仲間や出会ったマネージャーや上司との人間関係においても、結果に大きな差がでることも少なくない。 また、能力と一口に言うけれど。 あの笑顔に接すると皆が嬉しくなる、彼の同意や励ましの声ほど心強いものはない、という能力にも意味がある。 年齢の重みというのもまた、思慮や言動、交渉力などとして有効に発揮される。 そうした人は居なくてよいとした近年のリストラ旋風の後で。 居なくなった諸先輩の秘められていた能力を知った人は少なくないはず。 こんなとき彼が居ればと、価値の無い人などいかに少なかったか思い知ったものです。 モノ造りニッポンの崩落や低下だけでなく、公務の職の多くでも、モラル低下を感じさせるニュースが増えたことはご存じのこと。 そのことと、器用に出来る程度の未成熟な若者を人間管理能力と見間違って用い過ぎて起きた失態が、重なっていないでしょうか。 人の能力を、狭い尺度で見て、過小評価したリストラ旋風が今、ささくれ立った荒れ地に吹いていないでしょうか。 年功序列や終身雇用制度反対として、同一労働なら年齢に関係なく同一待遇という思いは、元気溌剌なある期間の、若さ体力が放つ言い分と私は見ます。 また短期決戦だけの労力スポット買いの経営者にとっては、たしかに都合良いものでありましょう。 けれど、若い一時期の一発アイデア勝負のような出し抜き合戦能力主義で、生涯生き残って行けると思っているのでしょうか。 一発勝負の孤軍孤立したガンマンばかりの組織を、今成果主義というのかもしれません。 だが人は生涯にわたって孤軍奮闘し続けられるか。 また、安く雇って、不満げに従うだけの非正規でよいという考え方の組織が、人心の繋がり結束による協調、目的遂行の意志(モチベーション)を高めながら動くでしょうか。 籠に載る人、担ぐ人、そのまた草鞋をつくる人の昔と違って、そんな能力基準から籠に載る人ばかりを組織して、機能的に繋がって回るのでしょうか。 溺れながらも救命ボートや筏(イカダ)に必死につかまる仲間を、無能者は生きるに値せずと叫んで、蹴落として自分だけが生き残る。 そういう本来のニホンにはない考え方を、今皆でグローバル時代だと口を揃えているだけのように感じます。 そうした刹那的な、たった今耳を揃えて払ってくれ的な、とりあえず今を生き延びようというなら。 明日をも知れぬ西部開拓時代の腕力や銃に頼るしかない風来坊発想のようでなりません。 良くも悪くも村寄り合いながらの列島ニッポン人までが、クールに人を信じたくないわれ独りとか、信じられたり頼られたりすることを恐れる人たちの社会にすることはないのではないでしょうか。 それで良いとするならこれこそ心配しなければならない国家人心の危機でしょう。 個々の企業の効率追求をしたつもりでも、吐き出される失業者が増えれば、社会全体では大きなマイナス。税収も減ればGDPどころではない、失業保険支給額が増すばかり。 まして購買層消費者が減ってしまうという経済流動面の根源的問題にも突き当たる。 けれどなにより考えるべきは、仕事を失った者の失意感や疎外感の蔓延こそが、国家の大きな損失ではないでしょうか。 意欲、熱意、情熱はとても交付金などで簡単に買い戻せるものではありません。 まして、つまらない国だとか、なさけない時代だというような雰囲気が社会風土となったなら後々まで遺伝的に影を落とす。 ですからそのツケ、復旧の時間は大変なものでしょう。 そんなわけで、もはや自分だけが良ければいいという考えでは行けない。 この点では環境問題と何も変わらないわけです。 目的意識をしっかりもって、厳しくも納得して繋がった人と心の組織は人生を豊かにするでしょう。 たいがいの人生の最も多く費やす時間は、やはり就業の時間ではないでしょうか。 それが実りある人間関係のなかで送れるのであればそれが幸せな人生だと思います。 家庭をもって、子を育てて。やがて親と死別するころには、頭に白いものが増えて薄くなる。 後進の若い体力気力には遅れをとるようになる。 けれど家庭の出費はかさむ一方。 そんなとき無能な自分は仕方ないなどと言い切れるのでしょうか。 若者と同じ物差しで評価すべきなどと真顔でいうのでしょうか。 じっくり時間をかけて経験を積み重ね、それに裏付けされた思考力や判断力。 それが年輩者の価値ではなかったのではないでしょうか。 そうした能力のうえに、行動力や向学心旺盛な中年層が居て。さらに血気盛んで勇気あるより若い層。 そのような石垣を構成することの強みを思えば、年功序列や終身雇用は、現役中年金制度、というべきものかもしれません。 その為にも、組織の総合力を社風や伝統、経営やマネージメントの基本として。 次代を託す若者を迎えて信じて育てて、しっかり伝承して。 永続的な成果に繋げる総合力を鍛えて。 非正規労働の拡大とひき替えに喪失した労使の信頼感をここで再生することが産業の再生でもあると思うのです。 こうした考えはなにも産業企業ほか組織という枠で捉えるものでもなく。 国のこととして、あるいは自分の家族のことで考えれば、ごく当たり前だとしてうなずけるのではないでしょうか。 子どもを躾教育することと、新しい仕事仲間を指導することは同じ思いであり。 先輩たちへの感謝は、親への感謝に通じるわけです。 そして労働の場をもつ喜びは、楽しい家庭の実感に通じます。 であれば年功序列や終身雇用を否定することは、家族や社会秩序をも否定することにはならないだろうか、と思うわけです。 |
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