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夢舟亭
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エッセイ  夢舟亭   2007年04月21日

     上野駅から


 歌謡歌手、井沢八郎氏が亡くなったと私が聞いたのは最近のことだ。

 井沢八郎といえば私の年輩の人はほぼ間違いなく、「ああ上野駅」をなつかしくあげる。
 昭和40年ごろさかんに聞かれ歌われたヒット歌謡曲だ。

 歌われている上野駅は、鉄道が北に敷かれて以来、東北・山形・秋田・上越・長野新幹線が東京駅始発になるまでの百年もの間、日本の北から中央東京に入る玄関口といわれてきた。
 北国、東北に向かうにも入るにも、上野駅のホームを踏まなければならなかったのだ。

 汽笛をひびかせ白煙を噴きあげる汽車の時代。
 北から終着であり始発点、上野駅は遠かった。
 私の故郷からなら、たいがい鈍行普通列車で片道1昼夜はかかったのではなかろうか。
 当地からのその距離には、今の異国とおなじ隔たりを感じたものだ。

 40年も前の春。
 私の社会人生も東京から始まった。
 誰でも二十歳ごろはそうだろうが、まだなーんにも知らない若者だった。

 それが今思えば幸運なことには、私はあの集団就職列車に乗ることができた。
 当時都会への集団就職者専用の列車は特別編成だったのだ。
 それも臨時準急で鈍行より速かった。
 それにほぼ1日乗ったことになる。

 集団就職列車はあの後どのくらい続いたのだろう。
 ニッポン高度成長真っ最中の若者の門出専用の、夢と希望をのせた銀河鉄道だった。

 北のはずれから各駅で、若い就職者たちを飲み込みながら私の乗車駅まで来て。
 その先もはち切れるほどに若者を抱え込みがら、一路上野にばく進した。

 それにしても当時高度成長の中心東京は遠かった。
 だから送り出す父兄親御友人知人そして教職員の人の群れでいつも閑散とした田舎のホームは、ごったがえ。進むにも歩けないほど別れを惜しむ姿があった。
 ハンカチを顔から離せずにわんわん泣いて手を振る姿もそちこちに見えた。

 無理もない。ほとんどは中卒者たちで、年齢は15歳。
 当時は次男次女以下は、皆実家農家から離れて一人立ちしなければならなかった。
 そこで都会へ。東京や大阪ということになる。
 明日からは生まれ育った地から遠い都会生活で他人の飯を食うことになる。


 今思うと、中卒も高卒も大卒も一緒の一把ひとからげに乗り込んだ様でした。
 たしかに会社でもまだまだ大より高、高より中が多かった時代です。
 前日に出向いた東京方面の会社や商店街商工会などの担当者が現地までに迎えに来ていたのもあった様でした。
 上野駅でさらに各々勤め先の迎えの人に紹介をうけては引率されて行った。
 生まれて以来共に育った友人同士が、ここで「安寿と厨子王」の別れわかれのシーンのように、元気でねぇと右に左に手を振り呼び合う。

 さてその夕刻。
 与えられた部屋で、翌日から行く職場にはどんな仕事と人たちが待っているのだろうと床につく。
 その日一日を思い出す。
 朝の出がけに、女手でひとつで育てた親だけに、思うこと多々有ったのだろうと、言葉少なかった母を思いうかべる。
 自分もまた話すのも辛い別れに、言葉は交わさなかった。
 わざと大きな声で就職とは関係のないことを、笑いをつくって話した。
 駅までのバスでは隣りに座れず、離れて乗った。
 出来るだけ考えず遠くを見やる車窓のガラスに、目頭をハンカチで押さえた母が映った。
 ホームに着くとそれぞれに親たちは皆、送り出す子に心配げに言葉をかけている。

 やがて列車が入ってくる。
 それぞれによそ行きの服装で荷物をかかえて乗り込む。
 と、もうたまらないのだろう。
   よしお〜! 元気でなー!
   まさこ! 忘れ物ねえよなあ。
   ゆきお〜 手紙出すんだぞー!
   気をつけてなー!
 列車が動きだす。

 追いかけては手を振りまた追いかけてくるホームの人並み。
 むかし、タスキ掛けの出征兵士たちも、こうして送り出されたのかななどと思った。
 やっとの思いで上野に着いて。
 皆それぞれ旗を掲げた迎えの人たちに連れられて都会に吸い込まれて行ったのだった。
 一息付けばそこは都会の自分の生活の場。

 消灯の天井に、記憶すべきその日の朝から寝床の今までを思いふり返る。
 そして、ここまで来てしまったからにゃぁこいつらと一緒にやるっきゃねぇ、と気持ちを現実に戻せば。
 そちこちで、もぞもぞと寝付かれないよそ者の気配は皆同じ。

 都会に慣れて親しくなった後に訊けば、あの夜は眠れなかったなぁと笑ったものだ。
 よしおくんの母さんは、よく泣いてたってねぇ。
 なあに、みんな同じだったのです。

 同じといえば、先生のほうもまたそれはもう心配な送り出しだったと聞きます。
 坂上二郎(コント55)の「先生」という歌がありますが−−
  小さな町の中学校に はじめて来たのは春のこと
  あれからいくたび校庭に 桜の花は咲いたろう
  教えた子どもは 数えきれない〜

−−の様に、とくに幼い中卒者へは、ああした思いが一人一人の生徒に抱いていた様なのです。

 今ほどに交通運輸でも情報の面でも隔たりのあった地方ではなおのこと。
  あいつは気持ちが小さいから大丈夫かなあ。
  短気な彼はうまくやれているだろうか。
  あの子は優しすぎるけど、どうしているだろう。
 その年の夏休みには就職先を全員訪問したというのです。

 でもみんなそうして職場にも都会にも慣れ親しんでオトナになって行くのです。
 やがてはそんな都会が自分の街になって、家庭をもって、親になって。子どもの心配をする様になるとは。

 ずっと後になって、親になった私も、息子を社寮に置いてくる時は辛かったものです。
 なんと馬鹿なコトを考えたものだと。
 いくら自分が経験した有効な教育の機会だとはいえ、今どき嫌がる子どもを追い出すように職に就かせる親なんて居ないのかもしれない、と。
 さぞかし辛かったろう。一生恨まれるなぁなどと後に思ったものでした。

 しかし昔の人の言葉は本物。
  可愛い子には旅させろ。
  他人の飯は食わせてみろ。
 これは正解です。実感です。浮かれた足も口先も、ぴたっと地に着くのは今も昔も変わらない。
 そんなことはたいがいが百もご承知。

 でも今ほとんどの親は、これが実際には出来ないとか。
 これもまた、たいがいは、考えるところ、まで。
 実行するにはなかなか気合いが入りますし、よほど信念をもってかからないと、子どもにも自分にもうち勝てない。
 妻さえも、あのとき連れて戻ろうかと、何度も思ったと言います。

 この4月また多くの新人が社会、世に出たことだろうけれど。
 みんながんばれよ!
 と声に出してしまうのは、さて歳なのか、あるいは頭が古すぎるのでしょうか・・

  どーこかに故郷のかおりを乗せてぇ〜
  入る列車のなつかしさぁ
  上野はおいらの心の駅だぁ〜
  くじけちゃいけない人生が
  あの日ここからはじまったぁ〜





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夢舟亭
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夢舟亭
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