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夢舟亭
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<この文章は商業的な意図をもって書かれたものではありません>

文芸工房 夢舟亭  エッセイ 2005年12月01日

     ヴィヴァルディ「四季」

 誰もが知っているごく一般的な話だ。
 そんなふうに思っていたら、必ずしも皆そういう理解で居ないと、分かった。・・ということがある。
 例えば、それは旧い一般的常識であって、交わす相手が世代代わりして、今の若い人には初耳だったりする、という様な場合だ。

 旧い話題となってしまった、と知ったものにヴィヴァルディの合奏曲「四季」のことがある。

 バッハ以前の作曲家の弦楽合奏曲が空前のヒット曲として囃されたことがあった。
 1960年代であったろうか。
 この日本で、なのである。
 80年代のバロック音楽ブームのもっと前のことである。
 癒し系のグレゴリオ聖歌や、ゴスペルなどよりも、ずーっ昔のブームということになる。
 東京オリンピックからあまり経っていない頃のブームだったようにと思う。


 私にとっても、ヴィヴァルディの「四季」といえばLPジャケット絵柄のあれだ、と今でも思い浮かべられる。
 演奏者はフィリック・アーヨのヴァイオリンソロを含むイタリアのイ・ムジチ合奏団。
 弦楽器中心で、チェンバロが加わった10名ほどの演奏団体だ。
 だったといったが、私にとってこれ以外でこの曲は始まらなかった。
 と、それほどに音楽ファンに新風を吹き込んでくれたのだ。
 まさにイ・ムジチは「四季」の奏者たちだった。

 むろんクラシック曲のことであってみれば、演奏者を限定するはずもないのだが、レコード社の企画の仕掛けだろうか。
 とにかく大いにイ・ムジチの「四季」は、売れた。その仕掛けは当たったのだ。
 私もあのLP(フィリプス版)を購入して聴いた。

 それにしてもあの曲の親しみやすさは何だろうかと、今も思う。
 2,3度聴けば口ずさめるほどの分かり易さ。
 四季。
 いうまでもなく春夏秋冬である。
 西洋のその昔。田舎、農村の春夏秋冬の風景を音楽で描写した弦楽合奏の曲である。
 各楽章を補足するヴィヴァルディ自身の言葉もあるという。
 そうしたことのジャケットの説明を追いながら聴くと、当時の様子が見える気がした。
「春」はボッティチェリ、そして「冬」の楽章はブリューゲルの絵さえ思い浮かぶ。

 ヴィヴァルディは17世紀イタリアの作曲家である。
 彼は小さい頃から音楽の才を発揮して・・などと型どおりの婚礼ご挨拶のごとき説明は私が書くべきではないので省くが、オルガンなども教会で弾いたという。 弦専門ではなかったのだ。

 この曲を知った当時、私にとってバッハは難解だった。
 今でも偉大なるバッハはどこか精神性が濃く難しげだ。
 そんなこともあって、時代をさかのぼるとクラシックはどんどん難しくなるのだと思っていた。
 だからそれ以前の生まれ(と言っても20年ほどの違いなのだった)のヴィヴァルディなどは、作曲者名も曲も興味対象外だった。

 しかしあれよと言う間に攻めてきては、こーんなミーハーな私の耳でも聴くことができた。
 後年、フルート協奏曲ほかを好きになったのは、「四季」よりずっと後だったし、ヴィヴァルディという人を、バッハは尊敬もお手本にもしたと後で知った。

 そんなわけでイ・ムジチによるヴィヴァルディの「四季」は聴くとすぐに親しめた。
 聴くとあまりに自然で、音でイタリア農村風景が織り込まれていると分かった。
 のどかな自然の変化に生きる人々の様子が頭のスクリーンに浮かんでくるのだった。
 のどか過ぎるほどの田舎育ちの私には、そこがまた親近感も湧いて嬉しかった。

 稚魚の頃に放流された鮭は、その川の水を憶えて、大海を巡って後必ず上り戻って来る。
 胎教などという様に人間も母胎のベッドで聞こえた音が生涯の愛聴のリズムやメロディーとなる。
 見事なまでのイ・ムジチの「四季」は、当時の田舎者の私の愛聴の一枚になった。

 それだけに私などは「四季」と言えばヴィヴァルディでなければならない。
 チャイコフスキーでもハイドンでもない。
 ましてやミュージカルやお芝居の集団でもない。

 そして、「四季」は、イ・ムジチだった。
 イ・ムジチの弦楽器の音は、そのまま室内楽団の理想にも思えた。それほどにも華やかさを感じる明るさがあった。
 四季は明るく響かなければならなかったのだ。

 ところで、弦楽器と言えばイタリアのストラディヴァリやアマティの名を知っている。
 こうした名のヴァイオリン名器製作者を思い出す人も多いと思う。

 数百年の命を持つヴァイオリン。
 その音色に当時のヴィヴァルディも目覚めたという。

 もっと言えば、そうした名器の音色に惹かれてヴィヴァルディの「四季」が生まれたという。
 ストラジヴァリ有っての「四季」ということか。

 そうしたエピソードを含んだイタリアの名曲を、イタリアならではの弦楽器のあの華やかな艶音で、イタリアの名画を彷彿とさせるかのように演奏するのだから愉しめないはずがない。
 私などは当時これ以外の「四季」は考えもしなかった。
 だからイ・ムジチ以外のものも聴いてみようかと、別な演奏のCDを手にしたのはそう旧い話ではない。


 軽音楽系の演奏団体が、「春」にせよ「秋」にせよ一楽章ほどの良いとこ取りアレンジで演奏しているものは多い。
 そんな中のかなりの本気度気合い入りの演奏に、ジャズのスタイルをとったフランスのジャック・ルーシェ・トリオの演奏がある。
 これはかなり聴ける。
 なにせ春夏秋冬各3楽章づつの全12楽章を、すべてやってくれている。
 とはいえ室内楽団のイタリア弦の艶などは望むべくもない。
 ピアノにベース、ドラムスの構成できわめてリズミック。ジャズなのだから当然だろう。

 ほかにも名演奏家の艶やかな演奏の「四季」も聴いたが、依然この段階でもイ・ムジチが、耳に残りし初恋の音だった。

 そうした意識の転換をいやが上にも迫ったのがアーノンクール率いるウィーン・コンツェントゥス・ムジクスによる「四季」である。
 これには参った。
 当時の楽器を復元して演奏に加えて録音したという。
 曲そのものへもアーノンクール独自の研究のうえの解釈を加えたという。

 その演奏を耳にして、イ・ムジチとのあまりの違いに一瞬、私は拒否反応を示した。
 艶めいたあの音が無いそれは徹底した時代考証の末の、リアリズム映画の様だ。
 イ・ムジチに慣れ親しんだ私の耳にアーノンクールの「四季」はあまりにも素朴でリアルだった。

 イタリアの自然に育ってチャッチャッとさえずる小鳥や、ズーコズコズコという犬の吠え声は飾り気が無い。
 それだけに一層古きイタリア田舎風景を描く音の絵を、引き締めて聞かせるのだ。
 つまりイ・ムジチの絵は、月日が経ってあせた絵の具を照明と撮影の効果によって、鮮やなまでに艶を強調してくれる。
 だがアーノンクールの方は一切の情緒や感傷を捨てている。

 当時のイタリア田舎だろう感じを、そのままの色で見苦しかろうが汚かろうが、臭いまで再現している、と感じる。
 だから向こうで吠えている犬もけして血統書付きの家犬良犬ではない。田舎育ちの私にはその辺りがよく分かるのだ。

 これは如何にせん。
 イ・ムジチで知った「四季」は、どこのだれの春夏秋冬の思いなりや。
 田舎を知らぬ都会人の花園菜園の風景か。
 若い頃に親しんだヴィヴァルディの「四季」が、冠婚葬祭の晴れの衣を脱ぎ捨て、面相を変えて。
 人生の何がしかを理解しかかった中年の私の耳に、アーノンクールは土塊を知る大人が普段着で、田舎生活を生々しく語り直した、とでも言うべきか。

 別な言い方をすれば、ドレスアップとお化粧顔から、普段着や野良着に替えた農夫の日常を、手応えあるタッチで描き直した感じだ。

 このとき私は、綺麗事のパリを後にしてバルビゾンという田舎に移り住んで描いたミレーの、飾り気を排した田舎実風景画の好きな数枚を思い浮かべた。






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