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夢舟亭
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夢舟亭 エッセイ     2010年01月04日


     ワルツとKさん



 昨年末の、恒例音楽番組「紅白」の視聴率は40%にもなったとか。
 好みの多様化とはいうものの、紅白、というだけで「NHK紅白歌合戦」とは知らない人もいる時代ではありますが、まだまだ「紅白健在」なり。

 かくいう私はといえば、最近は歌など聴く気力も少なく、まして自ら口ずさむことなど滅多にありません。

 ですがこのお父さん世代は、たとえ日頃歌を聴かず歌わずとも、大晦日はあの番組に気持ちが向てしまうのです。私などはその世代ド真ん中なのですから。

 映像無しラジオ放送全盛の頃から続いてきた、スター歌手オール出演のステージ、年一回のスペシャル大特番。
 紅白、で日本全国の年が暮れたというはなしは、けして大げさではなかったのであります。

 では出演をするがわの歌手たち、選ばれるがわの気持ちはといえば。やはり今でも大スターの地位の条件として、その証として無視できず。
 それだけに本番のその一瞬は緊張ものだそうです。まさにNHKの紅白は、今も天下の大イヴェント。


 とこで近年、年始元旦のお楽しみ音楽番組として、もうひとつ。
 華やかなウィンナワルツが定番になったというひとが多いと聞きます。

 今や国際社会の時代です。グローバル化、ワールドワイドという言葉が日ごろ飛び交っています。
 たしかに目に耳にとどく音や映像は国内のもの以上に外国産のものが多い。
 
 そこでワルツ。オーストリアは音楽の都ウィーンからの衛星中継テレビ番組です。
 ヨーロッパをはじめ今では世界の、元日に衛星中継放映される名物番組となったというのが「ニュウイヤーコンサート」。
 その音楽番組は世界十億人を超える視聴者へのお正月のプレゼントとして。

 数多のワルツ曲を生んだ19世紀のヨハンシュトラウス(二世)の作品を中心に、二時間強の、絢爛豪華さがワルツには過ぎるほどのフルオーケストラ演奏番組です。

 そしてこちらもまた、行われる前にすでに話題になるのが年替わりの出演者。この場合はオーケストラの指揮者、が音楽界のニュースとなるほど。
 今年は一昨年につづいてまたの、フランスの御大、ジョルジュ・プレートル。両手そのものを指揮棒にするお爺さん。


 三拍子、ワルツ。ラリララララー、ズンチャッチャッ、ズンチャッチャッ、いち にっ さん・・を耳にするとき。
 クラシック音楽なのだぁ! と構えてしまう格調高さよりも、清々しくも華やかな気分になります。
 100年以上もむかしの曲なのに、今21世紀型の初春気分にさえなる。

 こうしたワルツ曲の王様とあがめられる作曲者ヨハン・シュトラウスは、父親と二代で同じ名前なのだとか。
 そのために名前の後に、一世、二世、と添えて父と息子を区別するという。

 ヨーロッパで舞踏会盛んな当時、自前の2、30名のオーケストラを率いては、自作曲を披露しつつ、親子が互いに人気を熱く激しく競っていたらしいのです。


 そうした豆知識とともにワルツ曲というものを、私が耳にしたのは中学生のころでした。

 昭和のその当時。半田ごてを手にしては煙をあげながら、真空管や電子部品をよせ集めつなぎ合わせて。板材に糸鋸(のこ)で丸い穴をくり抜き箱を作り。流行りはじめた音楽を楽しむ道具であるステレオ装置などを組んでいたのでした。

 そうした行為を今思い返せば、音楽を聴く装置というより、電子的に音を出すその仕組みのほうに、私の興味はあったのでした。

 学生の私がそうした趣味をもって行っていると伝え聞き知った近所の青年Kさんが、ある日レコードアルバム数枚を抱えて、わが家玄関に礼儀正しくも立ったのでした。

  もし良かったらこれをかけて聴かしてくれないかな。

 そう微笑むKさんでしたけれど、私の自作自慢のステレオの出来具合には興味をしめさず、あくまでも曲と演奏を楽しむ人でした。
 だからKさんとの鑑賞は、まるで分かっちゃいないままに曲をかけては、ボリュームをめいっぱいひねり音量を上げて、狂喜する私と自作同好の友人とのときとは異なる雰囲気でした。

 美しく青きドナウ、ウィーンの森の物語、春の声、皇帝円舞曲、酒・女・歌などの曲名が書かれた、Kさんが持ち込んだLPレコード盤。それらは汚れもなく磨かれていてまぶしいものでした。
 二つ折りになったレコードジャケットから、黒びかりするその円盤を抜き出しては、おごそかにプレーヤーにかけ替える。
 鳴り出すと説明文を何度も目で追っているのでした。

 流れる明るい曲調にたいしてひかえめな音量に設定しては、流れるワルツの華やかなメロディーにそぐわない落ち込んだ心持ちで遠くを見あげたりするのでした。
 その仕草に、二十歳をこえた年齢の男性、青年には不相応な純真で真剣一途な性格であることが、中学生の私に見てとれました。

「このヨハンシュトラウスというワルツの作曲家はね、二人居たのさ。
 親と子。一世と二世。
 一世は父さん。二世が息子。
 だけど、仲がわるくてね。父さんが分からず屋だからな。
 けど、良い曲をつくったのは……」
 それは息子のほうなのさ、と私には声にならないKさんの声が聞こえました。

 それと同時に、なぜ仲が悪かったのかとは、すっと訊けない含みを感じました。

「父さんは、息子がやりたいということを、やらせようとしなかったんだ。
 息子の才能を理解しなかった。
 いや、妬(ねた)んでいたのかもしれないな」

「このシュトなんとか、が?」

「 父シュトラウス一世がさ。
 息子、二世は、音楽をやりたかった。音楽が好きで、自信もあったんだろうと思う」

「けっきょく二世は、オンガクというのを、やってしまたんだね」

「ああ。父さんの反対なんか、かまっちゃいなかった。
 だから今、この曲があるんだ。
 どうだい、じつに良い曲じゃないか」

「Kさんも……オンガクを、やりたいの?」

「いや、ぼくは音楽ではない」

「じゃ、なに?」

「文学さ」

「ぶん、が、くぅ!? 」

「ああ、小説を書きたい。
 だから、その勉強をしに、東京に行きたい。
 でも……父さんは、それに反対なのさ。『大工シゴトをおぼえろ。建物造りがお前の仕事だ。だのになに寝言いってやがんだ』と、話にならない。
 ぼくなんかどう見たって大工仕事には向かない。だのに」

 Kさんの家は何人もの人を雇って当時昇り調子の建築業だったのです。

 ステレオ装置を組むためにラワン材を数枚譲っていただきに出向いたとき、Kさんがたまたま居たのでした。
 何を作るのと訊かれたが、たしかあの時事務所で、ぶ厚い本に指をはさんでいました。

 もの静かなKさんは、学生のころから地域に成績が良いと知れ渡っていた。けれど高校までで家業に就いてしまったのです。
 それは、大工は腕だ、というたたき上げ社長である父親の考えに従ってのこと。
 それでもKさんは書物を離さない色白で背高な好青年のままでした。

 いま元旦恒例のウィンナワルツ映像を思えば、着飾った男女が優雅にステップを踏むワルツにも似つかわしい容姿だったかもしれません。

 すでにKさんは建築業の経営を継ぐことを約束されていることを羨む話とともに、綺麗な「いいなずけ」が居るとのうわさも言い交わされていました。

「小説って、もうかるの?」

「儲るかって? ぜんぜん儲からないだろうな」

「じゃあ面白いんだ?」

「面白くなんてないさ」

「じゃあ……なんで小説なの?」

「書きたいのさ。小説はね、人の心を射ち抜く。
 それは驚くほどだ。深く滲みて人生の友にさえなる。
 きみも読んでみないか。貸すよ。あとでとりに来な」

 私はとてもそれ以上の会話にはつき合えず。断れないものを感じて、お義理で夕方借りに行きました。
 渡されたなかの本を開くとどのページにも活字の文字だけびっしり埋まっていた。私はすぐに閉じてしまったものです。

 私が、借りたそれらの本を読んだのは、後にKさんが独り村を出てしまったという話が伝わってから何年もすぎてからでした。
 そしてまた、「小説は、深く心に滲みて、人生の友になる」というKさんの言った意味が少しだけ理解できたころでもありました。



 わが地域も市に合併されて近年、音楽ホールの建設が計画されました。
 そして今年それが見事に建ちました。

 新年を祝す地域の広報誌には、祝賀メッセージとともにその落成の祝い文が載っていました。
 地域の名のある方々の祝辞文で埋まった紙面の何番目かに、施工建築会社社長の挨拶文というのがありました。
 楕円の写真が添えられたなかで、白髪をきちっと分けた品の良い老齢紳士の横顔が。
 つづいて「地方音楽文化振興の殿堂……」云々とのひときわ異彩を放った美文があったのです。
 その名前はと見ると、それはあのKさんなのでした。

 私の耳元でシュトラウス二世のワルツが優雅に鳴り響いたような気がしました。





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