エッセイ
2008年 1月20日
優しくない優しさ
優しくない優しさ。
それが子育てに必要だということを聞きます。
そして私もその通りだと思うのです。
子どもが「うん」とうなずくか、「ううん」と首を回すかだけで。
用足りしてまうような、お節介なほどの先回り気配り気遣い。
障害者を介助するような子育ては行うべきではないという意味です。
そういうタイプの優しさをやめて、放っておくことが真の優しい躾だという意味です。
危ない不安だ心配だと、猫可愛がりに撫でて。
まとわりつくような優しさは、子どもの自立心の芽をつぶすことになると思うわけです。
放っておくことで、自らぶち当たって会得する機会を増やすことが本人の為には良い。
だから一回だけは痛み苦しみ辛さに涙させることが心の発芽芽吹きには必要だ。
これは幼い子どもにだけ意味のある教え方ではない。
聖人君子的な末は博士か大臣に育てるための特別レッスンというわけでもない。
教えるがわに大人の思慮分別がいくらかあればできることだと思うわけです。
躾教えを受ける立場で考えてみれば分かることだが。
口うるさく感じる情報量を第一とした説明ことばにはうんざるするものだ。
自分のことだけを四六時中監視されていると感じるのも煩わしい。
それを愛情だとばかりに浴びせられたら窮屈でたまらない気がするではないか。
ところが2才くらいでこの温もりに慣れてしてしまう子は、ちょっと放っておかれるとわめきだす。
それへ愛情が足りないのかと錯覚する親。
転んだ経験がなくて顔面を打撲する子がいるという。
本来生物として日ごろの体験から自然に身に付けるべきことの多くが、先回りの手助けで取りあげられると、未経験のまま育つ例だと思う。
本人が必要性を感じて自分からとる行動は、やり方や経緯や結果を自分自身のこととして体得する。
何かを行えば五感をふくむ全身を使うことになる。
さらに突発的な状況変化にも工夫するだろうから柔軟な対応意識も湧く。
周りにいっさい優しい手助けが無く、総て自分で考えて行うしか生きる道は無いとすれば。
ひとつひとつ自分の身体でぶつかっては試し、失敗し偶然の成功をきっかけに体得する。
ときにはヒントも共感や賛同をもって味付けが必要だろう。
大きく立ちはだかってがんとして譲らない壁にもなるべきだ。
そういうものを越えて現実に踏み出さなければ最終的には死さえ待っている。
自分をもり立て守るのは自分なのだという、ここが肝心だと思う。
スポーツの名監督は、受け持った選手に自分の体力の限界を知るために倒れるまでさせてみると聞いたことがある。
嫌でも気づいてはじめて自分の心身の弱点や守るべきことに目覚める。
現代はあまりに過剰なほどの安全対策や規制や監視や介助があって、身をもって体得の機会を取りあげてしまっている気がする。
そこでどこかの誰かの言葉や映像に頼る。どれも商業主義の産物なのだ。
知識言葉などの教えはあくまでも他人の基準でしかない。
他人の空腹の説明で自分の食欲を知るようなものだ。
知識はあくまでも他人的なものであり自分的な思いや考えとは別なものだと理解して教えるべきだろう。
空腹は経験するのが一番早く記憶も深い。
おのれの生活を自分の行いで確保しはじめれば、他人との互助の思いも生きる知恵として湧こう。
親切の意味など口数で諭すよりも経験済みの痛みや流血量で直感できるだろう。
教える者も知らない理論や情報などを与えるよりも、生きている実感を優先させて体と心にひとつひとつぶつける学びの環境が、分かり易く確かだと思う。
一般的に何が大切か何が不要かの結論を先に聞かせるが、経験すれば自然に自分的判断をするものだ。
そのために、ある年齢で一人生活を経験させることがいい。
人間、生きるに必要なことが自然と判る。判るとは体得するということ。
無いとどのくらい困るか苦しいか、悲しいか辛いか恥ずかしいか。が、嫌でも判る。
その段階で一人分の現実的な判断する生き物ができあがる。難しい理論ではない。
そんな考えから私は四人の子どもすべてを、社会への巣立ちのときから家を出てもらった。
孤独のなかでもの想うことも宝だ。
三年で精神的な自立に至っているように思う。
あとで分かったのだが、フランスの高校入学時の常識的な巣立ちスタイルがこれだという。
またわが国でも丁稚奉公や住み込み修業のような親離れの仕組みがあった。
都会での修学や集団就職などもその姿のひとつだろう。
そうしてきて、気づいてみれば、親であるあなたは老いたら誰に面倒を看てもらうのですかと、子離れのできない人たちに嗤われてしまった。
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