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夢舟亭
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エッセイ 2008年04月05日


    読み書きソロバン


 私の母は「人は読み書き算盤だよ」とよく言っていた。
 文字を憶え、読めて書けて、計算が達者なら食って行ける。祖父母の時代の学問への思い。それを耳にして育ったのだろう。
 口癖となって残っていてわが子に聞かせていたのだと思う。今ならさしずめパソコンを扱えれば食いっぱぐりはないというようなものだろうか。

 私が小学生のころ、故郷の田舎の個人塾といえば、算盤か習字の塾だった。
 教えていた先生はたしか現役教師だった気がする。つまり裏家業アルバイトだ。
 いくらか塾費もとっていた。だが誰もそんなことにクレームを付ける大人はいなかった。いないどころかボランティアと見てご苦労様の声さえあがった。
 算盤といえば商売の子は必修であるから暗くなるまで弾いていた友は多い。
 当時の教師は薄給だったのだろうか、借家で二部屋。その一方にお座りで並んで算盤と向き合ったのを私も憶えている。商売の子ではない私は仕方なく通った。
 教わるなかで、目をつぶって頭に算盤を思い浮かべなさいという暗算がある。あれは出来なかった。暗算さえさせられなければもう少し続いたと思うのだが。飽きっぽい当時の私はその時点で逃げ出した。

 残りが、読みと書き。
 書きは習字があった。手書き文字はパソコンとメール全盛になるまでは大切だった。
 書く人の精神が書体に現れるという。見事な筆跡の名前だけで一目おかれた。
 で、これもまた放課後通わされた。手や顔を黒くしながらけっこう続いた。文化祭やコンクールで金紙を貼られたこともあった。えっへん。
 だのに今手書きのチャンスがほとんどない。
 先日、机の奥から万年筆を二本見つけだして水洗い。乾いた本体に百円ショップから購入したインクカートリッジを挿入した。書いた名前や住所に驚いた。
 これが当時金紙の字体だろうか。小学生にも劣る。

 漢字の読み書きは人並みに読めたし、書けた。なにせ書取りは学校で必修の国語。
 問題は読書の方だ。
 母は小学生の私に、お医者さまになる人は自分の背丈ほどに積みあがる本を読むのだとよく言った。
 今考えてみれば月刊や週刊雑誌をとっていたのだから、散らかしているそれらを積みあげてみればそのくらいにはなったはず。驚く紙面ページ数でもなかったろう。
 しかし勉強とはそれほどにも大変なものなのですよ、という気構えを諭したつもりなのだ。その真剣な口調に圧されて辛そうな勉強までして医者になるなど到底無理だと思った。
 なぜ医師かといえば、母は看護婦の経験があった。後には40歳代で助産婦や保健婦の資格まで取って仕事にしてしまった勉強家なのだ。
 そんな彼女にとっては、尊敬に値する男といえば医師をおいてほかにはなかったようだ。それで何を学ぶのにも、医師の努力を基準にしてそれより上か下かと比べた。
 対して私の読書といえば雑誌やマンガほか絵のない本は苦手なのである。だから母は、期待にほど遠い私を早々に諦めるしかなかったはずなのだ。が・・・

 母の勧めたまえし「書」にはもう一つあった。
 それは作文だ。読後の感想文もふくむ。
 日々の出来事を、机に広げられた原稿用紙に書けとうるさく迫った。私は書きたくて書いたことはなかったと思う。
 やっとこ書き上げた作文を、母はコンクールやこども綴り方の放送番組に送った。当時は授業のほかに文を書くような子など少なかったのだろう。けっこうラジオ電波に乗った。
 聞いたきいた、と友が声をかけてくれた。母にも親戚や仕事仲間からお褒めの声がかかったらしい。そのときの喜びを隠し漏らす顔を憶えている。

 そんな小学生の私に、親が勧めるのは医師、が無理ならせめて文系の公務員。けれどその進路に私はほとんど興味を示さなかった。「模型と工作」や「子どもの科学」の類の子だったのだ。
 四六時中自分の手で何か小細工していることが好きだった。好きこそものの上手なれを地で行っていた。だから作文を書けといわれると、しかたなくそうしたことの面白さを書いたように思う。
 中学になると真空管ラジオを手作りした。バラしては作り分解しては組み直した。三年生の授業で作る頃は、目をつむっても出来るほど。先生といっしょに理論をもって級友に指導した。
 世はすでに何もかもが電子時代に入った。進路もこれしかないと思った。受験勉強などいつしたのだろうと思うほど半田ごてで煙をあげていたのだった。

 そういう流れの先で、当然のように就いた職も電子機器の会社。
 どんどん新しいテクノロジーが現れてくるのに目をみはった。知らぬ事に興味を湧かせて、わがものにせんと学び取った。知ると面白い。面白い分、仕事に活かせて評価もあがった。
 そんなわけで親の文系への希望に逆らって、理工系への進路に迷いなどまったくなかった。当時、親の失望はいかばかりだったろうと、今思う。
 そんな私が家庭も子ももって、三十路で親を亡くした。思えば高齢の親の子だったのだ。
 一方エレクトロニクスの世界はデジタル化に向かいつつあり、コンピュータが小さくなって机に載った頃だ。私も時代に乗ってハードもソフトも扱う一人となっていた。

 仕事上、飽きるほどに見慣れた端末画面が、ある日漢字かな和文が入力できるパソコンに換わった。そこで向学の思いで、始まったばかりのパソコン通信などを覗いてみた。
 国内会員100万人の間にパソコン関連情報が飛び交っていた。マスコミも個人が情報発信する時代、とかなんとか囃し立てたものだ。
 なかを散策していて、何気なく目に入ったのが文学や本などのフォーラム掲示板だった。
 そちこちを読んでみた。あまり上手い文章とは思えなかった。ふと忘れていた作文を思い出し指が勝手に動きだした。拙い文章を二つ三つ書き綴った。
 それを深くも考えず送り込んだ。シャレか冗談ほどのつもりだった。

 数日後、そこへ感想がぶら下がっていた。
 感動した、という。涙がでました、というのだ。
 普段の私ならさほど気にもとめないで鼻で笑って終わったかもしれない。
 だが、あなたの書いたものに惹かれて感じて涙した。文中と同じような境遇の人が遠縁に居るのを思い出した。それで昨晩恥ずかしくも忘れていたその人に会ってきましたという。今までに考え至らなかったその境遇を文章によって思い知らされ、新たな気持ちで接することが出来たという。だからお礼までに感想を書きましたというのだった。
 日ごろ無機質なコンピュータの応答文字だけ見てきた私には、異質な人の感情の高まりが感じられた。とはいえ顔は見えない。返された感想はこちらと同じシャレや冗談ではないのか。そう思ったとしてもそこで何か見過ごせない人の思いを感じたのだった。

 私は家族のためとはいえ生活のこととはいえ、毎夜遅くまで仕事して何年経ったろう。
 いつも自信に満ちていて迷いはなかったが、そうした日々の行いに誰か涙流して感動しただろうか。何らかの利害関係にある家族はべつにして、私の行動が人に喜びを感じさせたことなどあっただろうか……。
 だのにたった数ページの電子文章が、見ず知らずの人の心に染みて、涙を引きだす力を持つことがあるのだ。とすれば文章というものはじつは私が思ってもいない価値があるのかもしれない。
 これは私の苦手とする人の内面への開眼であった。そして、もっと真摯な気持ちで書かなければならなかったのではなかろうか。自分はもう少しまともなものも書けるのかもしれない。などなど、オーバーにいえば自分の価値観がひっくり返っるような目眩を感じた。

 あの後も何度か書き、そのたびにこそばゆい感想が批判とともに書き込まれた。
 今の私なら、泣けた、涙した、という感想に文章力を誇ったりはできない。
 老婆のつたない身の上話にもらい泣きするようなものだ。文章力とそのての感動は関係がない。などとと不届きな返事を返すかもしれない。
 泣かせるより笑わせるほうが難しいのさ。涙の出ることさえ忘れさせる感動の名文こそが文章書きの夢だとかなんとか生意気なことを言うかもしれない。
 しかし玩具のような電子機器にばかりうつつを抜かしてきた、科学オモチャな当時の私には人の心に触れて涙や感動につながるということは、自分で生んでいながら衝撃的な経験だった。
 自分のなかの混乱が整理できたのは初めの感想の1ヶ月ほど後のことだ。

 以来私のなかで何十年来の電子科学的なものへの興味関心は醒めて行った。
 興味の対象は無機質なものから人間になった。人の生き方考え方その様子。
 手当たり次第に世の名作と称されるものを読んだ。文章の綴りにも心新たに興味が湧いた。とくに文章の王道である小説が面白いのだった。
 大ホールで演じられるお芝居の舞台がぐるりと表裏大回転するように、理工系から文系への橋を渡ったことになる。
 この出来事と相前後して仕事の役割は、与えられた業務をこなす側から人をとりまとめる管理の立場に替わったのだった。

 とはいえ、誰にも負けない名文をとか凸凹文学賞を目指してなどと気負うつもりはない。私は自分にそれほど盲目ではない。ただ自分と対話して見つめることで、よりよい文章をペンも使わずに書き、続けられることを楽しんでいるだけだ。
 そしてこのところ、ちょっと軌道修正して初心に戻ろう、という気持ちが湧いたことはたしかである。
 それにしても、あれほど逃げ回った文作を今自ら望んで続けているのだから、人間生きている間は何が起きるか分からない。今の私に亡き母は何と言うだろうと可笑しくなる。


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