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夢舟亭
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エッセイ   2005年08月25日


    より分ける


 もっとも人間らしい点というと、やぱり脳の働きでしょうか。

 そのはたらき具合い、性能を測定して選別識別、より分けをするのが学力テスト。
 入試入学資格の選考試験などがそうでしょうか。

 どれほど学びたかろうが、熱心であろうが、情熱を注げようが。健康な向上心を傾けられようとも。
 机上、紙面数枚の答案の「正解」、好ましい回答数を競う、あの頭脳テスト、試験。

「だれよりも学ぶことが好きです」などの心情的な用語は一笑ほどの意味もない。
 合否判定は冷酷なる正解の多さです。

 この結果は、ときに人物の烙印となる。
 一旦識別区分されてしまうと、この色はなかなかに換えがたい。
 下手すれば生涯背負って歩まねばならないことにもなる。

 純真なほほえみの顔、かお、かお。
 小学校卒業写真中の一人ひとりに、この区分によって赤色×や○のマーク付けするように。
 生後二十年たらずの子どもを、早くもある尺度で分別、色別でより分ける。

 子どもらしい途方もない夢や希望やあこがれ。
 打算の少ない友愛。
 金銭感覚さえ薄い、好奇心や探求心。
 うふふ、えへへの笑顔や、清い羞恥心。あるいは勇気。
 奇想天外、型破りな創造心。
 何よりも若者特有の、心うきうきの行動力。
 抑えるなど無理な、沸き上がりほとばしり出る遊び欲。そして冒険心。

 それらは、春日で柔らかに顔を出したばかりの緑の新芽の様でさえある。
 さあどんな花を咲かすのだろう。

 それを「この社会この娑婆はきびしい競争社会だ。甘いぞ。耐え抜け!」と。
 師たり顔の大人たちは、尻を叩き、ひっ掴み、競わせて。
 出遅れは鞭うち、びりっケツなど不要な雑草だとして。
 むしり取り捨てるような扱いも無くはない。

 選択の自由も与えず、ベンキョウの重石をのせては競わせて。
 一握りの勝者という上澄みと、それ以下を「より分ける」。

 どの様な大木も、伸び盛りの先端は、ふわりとした若芽だ。
 それはか細い。
 ほんの一撃で折れる。

 不要烙印の大人目の視線を浴びた子らは、それを察知し読み、一瞬で悟る。

 われ不要なりかと。
 そこから、うつろ眼になり、生気を失い、心ろまでぐしゃりと屈折する。

 もとより「無理な努力」を成就し得なかった落伍者を、大人は社会のわれらは、どんな眼で見つめているか。
 しょうがない子、出来損ない、ダメなやつ、愚図、カス・・

 無情にも、他者との比較試験結果は、明確な差異となり、劣悪と公示される。
 知れ渡り、遠からず見捨てられる。

 ランクやレベルの数値差でより分け印を押されると、一生消えないで背負わされる。
 この判定を下された失意の若い芽、幼心にどんな傷跡を残すか。


 試験の最大の目的が人間の子どもの優位差、可否判定、より分け、だとしたら。
 われらは、社会は、いつからそんな非人間的あつかいに慣れてしまったのか。
 そしてそれは子どもたちの人生にどんな影響があるのだろうか。

 多くの人は、それが自分自身の為であり仕方ないことだ。
 がんばり、努力、一生懸命の尺度であり結果だと言うだろうか。
 しかし努力や結果というものはそれほどに人の可能性の目安になるのだろうか。
 その割りにはとよくよく考えてみれば、ぞっとする思いが見え隠れする。

 幼子が前方に夢みていた、成長の先の社会への希望が、早くもこの段階で不信感や絶望感に変わるとは思えないだろうか。
 努力と結果を比例すると信じる大人たち一人一人が見せる喜びや落胆の目の色や、無意識の区別により、失意の若者を見るのはむごくまた切ない。
 ここで子どもが失うものは何だろうか。

「ああオレはやっぱり……ダメなやつなんだろうか?」
「わたしは大して必要とされていないんだぁ」
「ちぇ、どうにかなれだ」

 街のかたすみでそんな言葉がつぶやかれるとすれば。
 大人の一人として、また子を巣立たせて今反省すべき親として。
 思いは複雑なのである。

 もちろん怠惰や、気まま勝手な逃げの気持ちとは、区別しなければならない。

 とはいえ、テストの結果が、出来る子、出来ない子、のより分けるをしてしまうことは隠せない。

 そこでこの季節だからこそ思い馳せることがる。

   ・

 1944年のころポーランドで。
 1メートル20センチの横棒の高さに、「ある意味」をもって。
 子どもを判定、識別、より分けした記録があるという話だ。

 第二次世界大戦中。
 ナチス・ドイツの一斉強制で捕らえられ運ばれた家畜貨車から吐き出されてあふれたユダヤ民。行く先は、アウシュビッツなどの強制収容所。
 そうした収容者たちは問われる罪などなにもない人々だった。

 その中には子どもたちも多かった。
 それらの子すべてを、収容所に降り立つがはやいか追い立てるように長い列を歩ませた。
 列の先には、ある高さに張られた一本の横棒があった。

 そこを皆通れという。

 立った姿勢でくぐり抜けられるほど小さい子どもには……なんと死への門が待ち構えていたという。

 幼いがゆえに労働力にもなり得ない子どもたちを、非情にもこの横棒は微動だにせず見送った。
 役立たない子は死。
 死への選別、より分けの作業だったのだ。

 なぜここに立たねばならないのか。
 なぜより分けられなければならないのか。

 そのより分け、生死判定の瞬間。
 意味を知った子どもは、横棒の下で必死に背伸びしたという。
 まだあどけない子どもたちの、けなげさである。
 背丈が足りない子は、歯をくいしばって跳び上がってもとどこうとしたというのだ。
  あっちには行きたくないよ!

 条件が満たさぬ役たたずは、生きる価値の無い者。
 背丈がとどかなかった幼い子は、老人の列と大量焼却の部屋へ、足を踏み出さなければならなかった。

 肩を落してぺたぺた、ちょこちょこと。
 抱き合い連れだって、むなしくすすむそのすがたが今も記録写真に写し出されて遺る。

 進み行く先にある部屋とは、日に2万人もを殺害処理したというガス室。
 そこを出るときは息絶え死骸となって、焼却炉の炎となる。
 そこまでの時間はわずか。
 死までは一瞬の苦しみだった。

 総統ヒトラーが見た夢は、ゲルマン、ドイツの血と頭脳こそが、この地上に在するに値する民族。そう信じて疑わない。
 あとはみな不要だと。
 だからすべて殲滅せよ!

 許されざるこの差別の意識。
 そして、実施の通達が発された。
 数百万人もの分類と、より分けが行われた。
 いまでは世界が周知の事実だ。

 そういった恐怖の実現を夢みるも、また人の脳だろうか。

   ・

 ナチの言葉、身体を綺麗にするためのシャワー室(ガス室)ですよ、というのに似た、若者みなに等しく無限の可能性があるのですからね、などの気休めを聞くが。
 ベンキョウ、キョウイクの目指す知能の向上には、区別識別し分別する部分が、少なからずある。
 より分けて選ばれた「英知」一握りが、栄えある首席の座にのこることを、ほか大勢の子どもは知っている。

「結局この世は賢い者が制す」の、ことばが示すごとく。
 人は古代から知恵ある者や集団が、そうでない人達との取引きや争いにおいて優勢だったことは、歴史が証明している。

 知恵こそが実力だというように、相手をだまし、陥れ。あるいは奴属せしめ。
 絞りとるというかたちで、生き抜いて来た。
 それは、うなずかないわけにいかない。
 食うか食われるか、の獣道なのだ。

 欧米大国から、アフリカ原住民や黒人の捕獲に始まる、人身売買と奴隷制。

 新大陸アメリカ国土を、わずかな備品で交換の強奪。
 先住民をいまだインディアン(インド人)と呼称してはばからない侵入者が、ほくそえむあやしい取引もあった。

 オーストラリアや南アフリカでも、大方は同じだったという。

 インドやベトナムほか、アラブ諸国が送った、ヨーロッパ強国への従属植民地の時期。
 フィリッピン、タイ、韓国、中国、旧満州ほかアジア地域への傲慢日本もまたしかり。

 裸の猿、人間が持つ知能の根源、脳というものは、こういった状況では最悪にして最強だ。
 呪われた悪魔の武器か、人の脳。

 いまでは万物の生命の母胎、地球すべてを破壊しうるほどに不遜で傲慢に膨らんだ。


 無意識のうち、ごく普通のはずの、あなたもわたしも。
 だれもが、選ばれたのはテストに合格。
 それはわが国民、わが地域、わが会社、わが家族。そしてこの自分だ。
 と他者を差別、ときに蔑視の眼を光らせないとは言えない気がするがいかがだろう。

 それが進めば……。
 選ばれなかった者は、不要だ、排除すべきだ、と考えを進めないとはだれも言えまい。

 生きてる限り、優劣順位であおられ。
 競い合って走りつづける大人価値観が染みついて。
 金欲物欲の頂点にいまもあるのが、学歴貴族レース。
 そのスタートラインと各ポイントにあるテスト試験というより分けの、横棒。

 これ以外に豊かなる国家への道は無いというように。
 本人の思いもむなしく。
 もったいなくも幼い真剣さが、より分けられ。
 失意の淵に立たせてしまうことが少なくない。

 さらには、そうしたより分けをあおり、さあ君は貴方は、勝ち組か負け組か。
 どちらに属すか、などとおもしろ可笑しく、なかば当然のように煽るメディアも多々見受けられるのです。





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