エッセイ
2007年03月17日
夜空
ベッドで目をあけると素透しのガラス窓から月が見える。
これは私の寝室の、密かな自慢なのです。
灯りをおとして部屋のカーテンを開けておいて。
寝床に入って毛布を目元まで引き上げる。
足腰の落ち着きをさがして二三度揺らす。
やがて寝具と一体になるにしたがって、少しずつ体温が周囲に移ってゆく。
そのあたりで目を枕元の透明ガラスの大窓へむける。
と・・満天の星のきらめきが降りそそいでくる。
このまますーっと眠りの中に吸い込まれてゆく。
私の生活のなかに、これほど至福なことなど、そうはない。
小高い土手のうえに建つわが家。
といっても、ごく普通の古めかしい家なのだが。
その二階に、銀河の夢路に誘ってくれるこの寝部屋はある。
先に家人が閉じて寝入ったカーテンを、そっと開いて横になる。
曇りのない夜は星座のかがやきが飛び込んでくる。
青い背景に光点が無数に散らかっている。
ちかちかっと小粒に凝縮した光のいくつかは、ひときわ明るかったりする。それらの配置がまた自然なのだ。
ひゅーっ・・と尾をひいて流れ消える光の帯をときおり見とめることがある。
また黄金のまるい月が真上にあるときに、もやっとした薄墨いろの雲が、うごいてきて顔を隠してしまうことがある。
だが、すぐに過ぎて、月と再会する。
するとまるで顔を拭いたように、いっそう輝きが増す。
その明かりに、部屋のなかまでがぼうーっと浮きたつ。
自分の顔も淡く照りかえっているような気がするほど。
その明かりが、横たわったこの身体を包んで、ふいっと浮いて空に引き込んでしまいそうにも感じる。
ピーターパンの話などの思い付きは、こういう気分で得た創作だろうか。
かなたはるかの星雲のずーっと先を見ていると、思いがどんどん広がっていって、光年の宇宙の旅を夢想する作家の気持ちも、分かる気がする。
創作のことといえば、近年のドラマや小説や歌に、人工味からはなれた“花鳥風月”を見聞きすることが少ないのではなかろうか。
見あげ眺めてみれば分かるが、星座は宝石で、月は夜の花だと思う。
夜は、地上というステージを闇という演出を配することで、多くの創作意欲を先人に託したわけだ。
古人たちは、夕闇が訪れて明ける朝までの時に、夜空、夜道、夜風、夜汽車、夜霧、夜露、夜話、などの言葉を見いだし、多くの想い、人世の幸や哀感を託した。
たしかに、眺めていると、つい夢想し幻想めいた気持ちにひたる。
想いが詞になった、月光、月の光、ムーンリヴァー、ムーライト・セレナード、スターダスト、エストレリータ、星に願いを、星はきらめきて、朧(おぼろ)月夜、浜辺の歌、出船、叱られて、砂山、夕焼け小焼、浜千鳥、十五夜お月さん、かあさんの歌・・・
さらには子守唄の多くが、詩人の魂の吐息として、きら星のごとく遺り、輝いている。
今ではすっかり忘れつつあるそのいくつかを、寝息のように無心な気持ちで口ずさんでみるのが、また嬉しい。
月に星に、夜空をあおいで、そういうひとときに浸るなど、さてさて……いつ以来のことだろうか。
果てしない想像の散歩に、宇宙スペースは格好の空間である。
あまりに果てしない広漠さのゆえに、誰れも確認できない想像世界のままで在りつづけることは、人の心をはずませ夢を誘うのにとてもよい。
光点のいくつかを見つめていると、想いが浮かんで消えてまた湧いてくる。
やがてその想像もあいまいになり、光点への焦点もぼやけてゆるんで、すーっと・・。
またべつな夢異次元のベッドにすべり込んでは、身も心も浮遊してしまう。
あぁこの世を去るときもこのようでありたい。
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