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夢舟亭
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エッセイ     1997/11/21


     夢見る笑顔



 彼は、坊さんのひとり息子だった。

 寺を継ぐことを信じて疑わなかった父親に、ある日云った。

「オレな……、やってみたいことが、あるんだ」
 ぽつりとひとこと。
 そのあと、しばらく無言で父に向かって構えた。

 けれど父はたばこの煙でも吹くように、中空に口をひらいた。
「好きにやればいいさ」

 予想とはずれたその言葉に、構えていたからだのこわばりが解けず、声もでない彼だった。

 それをさもわらうように、父がもうひとこと。
「思えば、おれたちは似たもの親子だな。おれもな、親に背いてこの職を選んだんだよ」
 彼がこれから何をするのかなど問うこともしない父が云った。

「よぉし、なにか記念に贈ろう」
 ゆるめたその顔で黄色い歯が老いを漂わせていた。

「オレ……カメラ、欲しいんだ」


 父はおもいっきり奮発してくれた。評判のニコン。その一番いいやつだった。

 それからの彼の、カメラ人生が今日までつづく。

 写真が撮りたくてとりたくてしょうがないで、覗き見つづけたファインダー。
 専門学校にも通った。

 良い写真とは何がどう写っているべきか、独り苦悶研究した。
 光加減も構図も、とことん追い求めた。
 夜も昼もなく今ふうの先進性を工夫した。

 会う人あうひとに、撮った写真を見せては、感想を求めた。誉める人などもあった。
 けれどどれも、素人の域をでていやしない、ただ小綺麗なだけのものだったのだろう。仕事などあろうはずもない。
 


 そうして数年。
 ある日、皺(しわ)の深い顔の女性が、彼のアパートのドアをたたいた。
 写真を撮る人だと聞いて来たのだという。

「ウェディングドレスの姿を、写してもらいたいの」
 照れながらそう云うと、サンダル履きでドアにたつ彼に、歳に似合わぬ照れを見せた。

 訊けば、戦時中の結婚なので、ウェディングドレスが着られなかったと、彼が応じないうちに部屋に入ってきた。
 そして手荷物を解きはじめたのだった。

 彼が戸惑いつつ拒否の言葉をさがしていると、水分などないようなその老いた皮膚を、隠すように厚化粧をはじめた。

 彼は白けた。
 記念写真などに興味があるはずもない。まして老人。
 写真とひとくちに云っても、自分が追い求めているものはもっとちがうものだ。
 若い人たちがあっと驚くものとか、誰もが美しいと見とれる雑誌に載っているような、あんな写真なのだ。
 それがこんな婆さんなんて……冗談じゃないよまったく。

 そんな思いをどう説明して断ろうかと立ちつくしていると、老女は、もう伴う人もすでに亡くなって今は独り身だとつぶやきながら。足元に、ふわりと、半透明の白いウェディグ用のドレスをひろげた。
 借りてきたのよ、とはにかむような幼い笑顔だ。
 その顔はすぐに、くくっ、と喉を鳴らして曇った。見ると皺の目元が濡れていた。

 彼はとっさにハンカチを差し出していた。
 よく憶えていない亡母の面影をその顔に見たのかもしれない。

 彼は、狭苦しい小部屋を片づけはじめていた。そして愛機のカメラを、三脚を立ててとりつけた。

 ファインダーを覗く。
「もっと首を、そうこう傾けて。うーん、背筋を、あごも、そうそう。さあいい顔しましょう。ちーず」


 翌日。

 丁寧な挨拶をくり返しながら訪れた老女。
 ドアをあけて彼が差し出した茶封筒の、大写しのその1枚をぶよい両手で受けとった。

 ご覧になってみてくださいと促すと、引きだしながら目をいったん閉じて、こわごわと開いて、見つめた。そしてふーっと息をのんだ。
 よたよたと立つ身体の震えも隠さず、じっとこらした目でしばし見入っていた老女。
 枯れてくぼんだ皺の頬(ほほ)に、いく筋かの涙が浸みるように流れていた。

 気が済んだか、老女はその写真を丁寧に封筒にもどす。と何度もなんども深い礼をくり返す。
 代金はと問われて、差し上げますからと笑む彼。

 閉めかけたドアの隙間から「帰ったら、あのひとの仏壇に添えなくちゃ」と、口元へ手をやった。
 彼がドアを閉じそびれていると「それにしても、わたしじゃないみたい」と肩をすぼめる。
「いいえ。とても綺麗ですよ」と彼は応えた。
 老女はそれにまた微笑んだ。

 彼はドアは閉めずに、写真を押し抱くようにして帰る老女の姿が見えなくなるまで見送った。


 そのときの出来事が彼に何を語ったか。


 まもなく、彼は貸衣装屋に駆けつけた。
 払い下げ用済み衣装を数着、なけなしの貯金でひき取った。

 そして知り合いや友人、そのまた先の老女たちに声をかけてみた。

 すると、ぽつり、またぽつりと訪れた年寄りたち。
 ふわりとした純白のウェディングドレスに、枯れた身を包むのだった。
 そして夢見るような自分の晴れの姿を鏡に映しては、こぼれる笑顔をつくる。

 彼はその一枚の写真に、持てる能力(ちから)を注いで撮りはじめた。

 ファインダーに映る老女らは、有りったけ、めいっぱいのにーっこり輝きを、シャッターの瞬きに向かって放つ。
 それぞれに幾多の辛苦を越えてきたのだろうその残り火のような深い笑顔を、すみずみまで洩らしはしまいと、彼は写し撮るのだった。


 こぼれるような大写しの笑顔たちはいま、個展の壁一面で、観る人を釘付けにして離さない。




                  修正:2010/09/21

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