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夢舟亭
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エッセイ     2010/09/08:修



     残暑


 若い方にはいささか辛気くさい話、あるいは抹香臭いなどととわらわれそうですが・・

 夏の後半にお盆があり、秋のはじめには、お彼岸がありますね。

 北のこの地ではことしの暑い夏も、生まれ育った土地の匂いをなつかしむように里帰りした県外遠地ナンバーの車が行き交っておりました。

 お盆には、そちこちの墓地で立ちのぼる白いけむりに、赤い花や白黄色の菊の花束で華やぎ。人生の終着点である石柱に手をあわせてたたずむ人の姿が数多くみられました。

 数日前。月ちがいの親の命日を思い出して、周囲の林の蝉の声に迎えられながら、夫婦で墓参りをいたしました。
 お盆がすぎたいまでは、丘の墓地は色とりどりだったろう花束も、すでに枯れてはいるけれど、どこも満杯のまま。
 となれば、心なしかまだ墓参の人たちの気配も感じられ、仏たちが互いに、おとずれた家族の自慢話など囁きあっているようでもあるのです。


 もう二十年も前になろうか。
 わが家の墓地のななめ向かいの区画に木柱が立ったのでした。
 削り木肌の真新しい側面には、男名に享年四十三歳と、墨黒く書かれていた。
 墓地の丘であってみれば、新しい仏はよくあることではありますが、その木柱を見てわたしは声がつまってしまった。
  四十三歳で亡くなったとは……と。

 自分をふり返って思えば、妻も子もまだまだ男手の助けが要る時期でしょう。若死にの本人はもちろん、家族の悲しみいかばかりか、と。

 その後、お盆や彼岸、また自家の命日に参るおりに、ななめ向こうに目をやると、その木柱は雨風にうたれて墨跡がどんどん薄れてゆくのでした。
 そしてどの季節にも、その墓には生花や線香のけむりをみることはなかったのです。

 私はそれを知ってからは、墓参りのときに菊花の一輪などあげて手をあわせたものです。
 木柱の前に転がったカップ酒瓶の土を払っては、残したリットルボトルの水を注ぎました。

 なにか不治のご病気でもあったのでしょうか。四十三歳とは早すぎましたねぇ。
 遺されたご家族はお忙しいのでしょう。きっと必死なんですよ。

 ときに一輪の花をさした手が、次ぎの動きに足りないものを感じて、おやこれは失礼しましたとわが家の墓にもどる。
 と、後方からながめていた妻は、けむり立つなかから数本の線香をつまんで差しだす。ふふっと笑みながら。
 それを受けとって木柱のまえにもどり、平べったい小石に線香をそえると、ここで手がしぜんに合わさる。

 あなたはご無理なさったのでしょう。生真面目なんだな。きっとそうだ。
 心残りもありましょうが、なぁにご家族がこないのこそ、みなさんお元気の証拠。
 だって考えてもみなさい。辛かったり悲しかったなら、お父さーん、と言って相談にいらっしゃるはず。でも来ない。
 そのうち逞しく育ったお子さんが、ご立派な墓石をプレゼントなさいますよ。いいえ必ずそうなりますって。
 子どもの育ちというものはそりゃぁ早いといったらないんですから。
 それまではこちらで苦るしんだ分、そちらでせいぜい陽気にして、唄でもうたってらっしゃい。

 などと、口にはださず合わせた両手を放しながら、くすんでしまった木柱の**之墓の墨文字に語りかけました。
 するとお盆の澄みわたった空の青さに、ひときわ蝉の声が暑く聞こえたものです。

 そうして数年。
 春の彼岸の日に、ななめ向こうを見ると・・
 木柱はなく、立派な墓石が設けられていたのでした。

 そうらみなさい。お子さんたちがこんな素晴らしいものをお造りになった。
 よかったですね。

 とても人ごとのように思えない喜びを感じたのでした。

   ・


 ここがうちの墓よ。

 丘の杉の木の下の、一抱えほどの石ひとつがおかれた墓地で、幼いわたしが、母に告げられたあの日あのときも、うだるような暑さだった。

 生きるに精いっぱいの母が、どうにか一息つける暮らし向きになった時期の墓参りだったのだろう。
 あの日も抜けるような青空にぽっかり浮かんだ雲が白かった。

 麦藁(むぎわら)帽子にランニングシャツ、そして半ズボン。泥土かソースでも塗ったように陽灼けたわたしの小さいたからだは、茶いろに染まっていた。
 母は、後の口ぐせに、あの元気さだけが親孝行だったよと、よく言ったものだ。
 あの夏も、駆けずりまわって日が暮れて。毎晩倒れ込むように眠っていたっけ。
 そうしてまた翌日、生活の心配も心の愁いも知らないで、有りったけのちからを使いきって遊びまわり、日を送っていた幼子のわたし。
 木枝で鳴く蝉に息をひそめてしのび寄り。蝶のつがいを網にかけ。とんぼのむれを夕陽に見あげて・・

 あの幼い日からどれほどの時間が経ってしまったか。
 その後わが家の墓石はわたしが建てた。背面の施工主にはわたしの名が彫られている。
 陽に灼けた か細い腕も、いまでは老いがしのび寄り、当時の母の歳をはるかに超えてしまっている。

 そうした思い出があったからこそ、他人の若死にの木柱に手を合わせられたのだろう。

   ・

 昼日中はまだまだ暑いことしの残暑は、これからしばらく続きそう。
 夫婦で墓参の日、汗拭きなれた皺の額に手をやりながら、ふたりで丘をくだった。

 きょうはどこでクドクにします?
 通りにでるあたりで妻が町中を向きながら問う。

 クドク。このことば「功徳」は、もともとわたしが亡き母におそわったものだ。
 功徳を辞書でひくと、よい果報を得られるような「善行」とある。仏門のことばからでたものであろうか。

 最近は、人を助けるとその人が甘えてしまって助けた人の為にはならない、と考える人が多くなったという。
 わたしたちの世代なら、積善の家にお慶あり(善い行いを日ごと、ことあるごとに積む家庭家族には、慶事(祝い事)が絶えない)の類の、ひとつやふたつは、それを心がける祖父母に諭されて育ったものです。

 母がどういうかたちでこの「功徳」を口にし始めたのかは聞かず仕舞いだった。けれど、功徳、クドクと言いながら、墓参りのあとに必ずどこかで小銭を遣って余裕を装う母のふるまいが、子どもの頃のわたしには嬉しかったものでした。

 微々たるカネとはいえ、世の中社会の他人へ施せることで、女手でもなんとか成り立ってきた生活基盤を自ら実感できたのでしょう、母。

 墓に参った帰り道に、食堂などに寄り、日常からみれば贅沢な外食に、どんぶりものなどを口にする。
 その気張った支払い額が、店へというより世間様への、功徳ということになる、と笑うのでした。
 ときには食した品が、値段ほどに美味しくなければそれもまたクドクだからね、と笑む。

 そうした幼い頃の墓参りの帰り道で、私が物欲しそうにおもちゃ店のウインドウに立ち止まれば、母は、クドクかねと微笑んでその日だけは私の手をひいて店のドアを、さっそうとくぐったものです。

 わたしが家庭をもってからも、墓参りのあとの老いた母と私の功徳という言葉と行いは続けられました。妻へはもちろん、子どもたちにもクドクが伝授されていったのでした。

 だから子どもたちが墓に参って、花や線香をあげて幼い手をあわせたその帰り道に、計算していては狙っていた欲しい一品を、クドクだもんね、と手に入れたものです。
 つまりその時だけは、それなりに無理な願いも通ると知っていたわけです。
 今にして思えば、仏心など分からぬ子どもを墓に向かわせる、親がわの誘い言葉でもありました。

 すでに母も逝き、子どもたちも巣立ってしまって。ささやかな功徳の落とし先、おカネの遣い道をさがす役は妻になったというわけです。

 いなか町もこのところは、幹線道路沿いの駐車場付き大型店やチェーン店におされて、さびれぎみ。
 旧町内の老舗はモダンな四角いビルに改装をよぎなくされたり、あるいは閉ざしてしまった店さえあるのだ。
 そういう通りを、いかにもいま墓参りをしてきたというふうに空ボトルを手にして、赤トンボを肩に停めたりして。
 家族の出来事など思い出し交わしては、そうだったかな、などと功徳の小銭の遣い先をさがす残暑の昼下がりの、そぞろ歩き。

 さて小さなちいさな余裕をふたりであそぶその日、手打ちのお蕎麦が功徳の行き先きとなったのでありました。







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