エッセイ
2008年01月11日
戯言放言
2007年末に報じられたニュースの総括は、「偽」の付く事件が続発だった、という。
年金未登録と未払いに、消えた年金は使い込み。それへ未記入未入力という怠慢。
防衛次官は装備品購入で汚職。
食品は偽装表示の不正販売。
それらへ責任感喪失とか、公徳心や義務意識欠如などといわれたのは、すでにご承知のとおり。
年金の件は、国民過半数という被害数、あわせて扱う額は桁違いに大きい。
国民の不安感は膨大で絶大。
となれば不満への対応は急を要する。
関係者へは厳しい罰も与えねばならない。
再発防止は絶無が目標であり、怠慢やネコババ対策と取締を強化を。
そして法改正も速急に願いたい。
犯罪には動機ありという。
だがこれはただの「し忘れ」。サボリであり、手抜き。つまりは「なまけ」。
ねこばばは私的な使い込み。
公私混同もはなはだしい。
こうなれば、厳選されるはずの人物評価も、業務に就いてからの管理も教育も、すべて見直しでしょう。
もっとも上位の者が手を染めていたとなれば、組織をガラガラポンの首すげ替えと再編成も必要。
それはまた、防衛備品汚職も同じ。
こうして考えてみれば、古今を問わず東西南北世界各国に、汚職は絶えないということでしょうか。
地位や権力のある者は、どこの人間も狡いということ。自分のポケットをふくらますものだという標準的罪なのでしょう。
偉い人と、位が上ということは、同じであるべきだが、実は同じではない。
同じではないというより、位と悪事が比例すると考えるべき。
官人を盲信する民こそ「まぬけの罪」かもしれない。とてもオレオレ詐欺の被害者など笑えない。
猫に魚を差しだすように、そうした官人を銭で手玉にとるのが商人。
不正商売は、商人根性の現れ以外の何ものでもない。
客は神様だとあがめたてまつり、銭にならどういうふうにも媚びる卑しさは、今更いうまでもない。
儲けのためなら誰をもだまし、金を増やすためにどんな人をもあざむく。利益のためなら何でもするということだ。
われわれ市民が気を付けねばならないのは、近年の彼らは紳士然として政治的結社某工業会などをもって、国政府ごと囲い込むからやっかいなのである。
ときによっては、お国のおふれである、などと言って小市民からうむも言わさず銭を巻き上げる。困ったものである。
昨今の犯罪者は悪人面をしていないというが、なぁに現代のワル越前屋だってそれは同じなのだ。
思えば賢明なる古人たちは、「士・農・工」の下に「商」をおいたのだ。
せいぜいお互いに枯れ葉や馬糞など喰らわないように気を付けよう。
しかし、それにしてもである。
思えばどの罪の心もプチでチビいではないか。
さもしい私利私欲の域をでていない罪人ばかりなのだ。
有史以来の人間の悲しい性からの仕業でありじつに寂しい業、煩悩というべきだろうか。
そんなわけで、どれもが昨日今日の珍奇な犯罪ではないのだ。
ずっと以前から行われていたようなことなのだ。未だ無くせないで居るだけのこと。
マスメディアは大忙しで声高に、ニホンはお終いだ〜、この国はどうなってしまったのだ、地に墜ちたぞニッポン、ニホン産業の低質化とかなんとか、オドロげな音響で視聴者をあおる。
それはまぁ彼らの仕事柄叫んでいるだけのこと。なにせ彼らは現代の「ラッパ吹き」でしかない。なにかに選ばず叫び通すことでオマンマを食らっているのだ。
おばかなのは、それへ同調する師たり顔の論評者。
これをそちこちで見うける。
この人たちもまた銭のために本業そっちのけで、分の良いマスメディアに担ぎ出されたのだろう。
いずれも銭欲しさという卑しさの点では、「ねこばば野郎と五十歩百歩」目糞鼻糞だと思うが、いかがだろう。
それにしても、なんでそんなに銭が欲しいのか。まさか衣食住に貧しているわけでもあるまいに。
ニホンは六十数年前の終戦ですべてを失い、みんなで貧して飢えた。
そこから恥も外聞もかなぐり捨てて日々衣食住を求めたことはあった。
近年、お金で買えないものはないと聞いた皆が顔をしかめたとマスコミはいう。
だがみんな「お金さえあれば」と金品に執着してきたのを忘れたわけではあるまい。
道徳心だとか社会性とか教育とか今でこそいうけれど、当時貧しさは心を卑小させた。その分私欲がふくらんだ。
先に述べた2007年の不祥事の張本人らもまた、「ぼくお金が欲しかったのさ」と交番で取り調べを受ける万引き小学児のように答えたようだ。
頭を垂れる一人前以上に思われていた大人のその心の奥には、学門で磨いた気高さは存在しない。
ただ私欲を満たそうとする小心小者の下品な姿が見えるだけ。
これはニホン人の例外的な心か、はたまた平均的な姿かは気になるところだ。
いずれにせよ2007年話題の失態や不祥事は、ニホンをどうしようもない終末に陥れるような大物事件でもなければ、ニホンだけの驚くべき事件でもないようだ。
言い方を換えれば、ごく普通の二流国であり、他国のお手本になり自慢できる国などではないということだ。
それでも、真相が隠し立てされないで、市民の告発によって露見発覚されるようになったのだからニホン市民力は健全に育ちつつあるのかもしれないではないか。
従来から閉鎖的だった会社組織よりも、市民社会が優先されるようになったニホンの未来は明るいと思うほどである。
けれども・・
年明けて、おとそがさめるにしたがって。
どこか虚しい花一匁、と感じる。
国が豊かになったといわれるものの。
市民力は心配なかろうとしても。
不祥事の張本人たちには、抗議的な公憤とか義憤といった、曲がりなりにも志しの色が無さすぎると思うのだ。
公憤とは「自分の利害をこえて、社会の悪に対して感じる憤り」であり、義憤とは「道義に外れたことや不公正なことに対する、いきどおり」である。
事件を起こすに至った思いや考えとして、大人びた社会的怒りや、政治的疑念や、思想的不満などをいっさい裏に持っていなかったということだ。
虚しいではないか高学歴社会ニッポン!
商人は利益を増やし、自社拡大に終始したのみ。
生涯を棒に振っても法を犯すほどの一大決心などがあったわけでなかった。
国防費悪用というなら、偏っていようと誰が何と言おうと、譲れない自衛の専門家の意地とか、国思う目標があってこそ官僚を知恵で目指した者らしさではなかろうか。
それが……ただの「ポケットマネー欲しさ」とはあまりに情けない。
ウソでもなに言ってほしかったではないか。
今、ニホン社会にこうした幼稚でばかばかしいほどの空虚感がただよっていないだろうか。と言いたいのである。
この虚しさは、ちょうど歌謡曲かJ-popで歌われる「あなたとわたし」「キミとボク」のやるせない鼻歌に似ていると思うのだ。
世界は二人のためだけに的な歌と目ヤニか鼻クソのレベルで同じではあるまいか。
大人の歌なら、せめて人生を歌いあげて聞かせてほしいではないか。
歌は世に連れ世は歌に連れというなら。すさんだ地方や、フリーター非正規やシングルの生活苦。ひきこもりや独居老人や自殺多など。
その裏で涙おとす「今人」の思いが歌われてこそ心情の表現。
そういうものを、
金財の力になど尻尾を振らず。
奇声で沸くあのての人気を追わず。
権力に臆せずに。
時代の底辺、社会の片隅を見つめて憂いて詠じることが、アーティスト魂じゃないのだろうか。
話は不祥事へ戻せば。
しょせん犯罪者ごときに、抗議や公憤、まして志などあるはずがない、といわれるかもしれない。
そこで、まともにとられると困るのだが、あえて誤解を恐れずに云ってみたい。
世界の中では、永年虐げられた民族や宗教の主張や独立をかけた紛争がある。
そのための軍資金がほしいという思う者もいよう。
人種差別や植民地弾圧あるいは大国のグローバリズムに対する後進国の憤懣に共感したので、それへ金銭の使いみちとしたいというのもあろう。
そういう大勢のひしげた人々の涙も涸れた表情を見て、居ても立ってもいられず起こしてしまった不祥事とでもいうならば。
という喩えだ。
こういうことなら多少は、次元が高いとみて大人の論も展開できようという、あくまでも喩えである。
比較するに、
年金の未登録や未払いになんらかの政治的思想的理由によるものがあるだろうか。老人問題を何とかしようという大それた裏があったわけじゃあるまい。
防衛汚職の裏に、国家の危機を感じて独自の企てを起こした、などという大思想も眼光も見えないではないか。
食品不正表示が、困窮者救済とか難民食料ヤミ輸送などであったわけではない。
聞くも恥ずかし、わが社可愛やの売上利益確保の裏技でしかない。
どれも、金品などモノともしないドえらい志に突き動かされたふうには見えない。
注意不足でつまづいて触れてしまった核爆弾の暴発の大被害のようで、怒るにも力が入らないのだ。
せめて、たった一人のこととはいえ全身不治の病に冒され苦しむ者への、自殺介助というような目的意識が欲しいという意味である。
どちらが大人かというような話である。
これは法に照らして考えるような話ではない。
犯罪とはいえ、人生をかけた自己主張があろう。
人の行いを見るとき、結果の大小よりも、その点が肝心だと思うのだ。
そういう目でニホン犯罪風景をながめなおすと、どういう思いや考えが見えるだろうという話である。
私には、2007年の彼らが遂げるべき目的への思いや考えには、なんとも薄っぺらな感じしかもてない、という話だ。
そしてそれは、ごく一般的な大人の心象風景なのではなかろうか、といえば言い過ぎだろうか。
あまりに小せぇ〜それら意識の状況を、われら小市民としてはさて幸とすべきか不幸とすべきなりや。
今年もまた、成人の日が近い。
<参考>
ぼん‐のう【煩悩】:身心を悩まし苦しめ煩わせ、けがす精神作用。
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