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夢舟亭/浮想記(随想)
 
 
 

  小説&映画「沈黙」
              2017年 08月20日


 遠藤周作著「沈黙」(1966年)、それを映画化したスコセッシ監督映画「沈黙」(2016年)を味わった。

 作家、遠藤周作といえば、わたしなどは芥川賞作家というよりも、「狐狸庵」の別名で書いたお道化ふうエッセイ小話集のほうを多く楽しんだもの。

 氏の小説作品にみられる”息苦しさ”はその頃のわたしは、小説とはそうあるべきだと納得していてさえ苦手だったのかもしれない。

 そんなだから当原作「沈黙」も、今回の映画化を機に再読するまでは、”長崎の隠れキリシタン”の話であることは記憶していたものの、その詳細はほとんど覚えていなかった。

 今回、作品に触れた順は、映画が先。後に図書館の奥棚から探して借り、色あせたページを繰った。

 映画は、原作の”時の流れ”をそのまま忠実に映像化されたと分る。

 この作者がキリスト教の人であることは分かっていたし、氏の作品群はその思いでしたためたもの、ということは分かっていた。

 だからわたしなど無信心者が、共感できる内容であるはずもないのは百も承知での鑑賞。なにせ「神」の話なのだから。
 わたしなどに”その世界”は単に人間の想像世界の域でしかない。

 けして目にも手にも触れえない存在を、”在る”と信じ、その”教え”に生涯を捧げ、背かず従いつづける精神は、奇異ですらある。

 原作のある個所に、「もし神が存在していないなら、信者らの頑なな信仰心と行いなどは、ただただ滑稽な極みではないか」と、ポルトガルから渡来した主人公の若い司教が悩む。
 これほど信ずる神が、なぜ何も語りかけて来ず「沈黙」をるづけるのですかと胸の内で苦悶するのだ。

 わたしなどの思いこそ、まさにこの一行にある。これがわたし的宗教観をずばり代弁している一行だ。
 ということは、原作者は一小説家として”よそ者の目線”をしっかり把握しているうえでの小説であると感じる。

 どんなことも、”一途な行い”というものは、部外者門外漢には理解しがたい面が、少なからずあるものだ。

 こと、宗教、信仰心となると一層それが強い。それは、考え方や生き方、人生観にその色をしっかり塗り染めてしまうからだと思う。

 神、が存在している。そしてその神だけが世界隅々の信者を、くまなく見守りつづけ死後必ず天国に迎え入れてくれるのだ、と信じて疑わない。

 この地上に脳の発達した人類が生息したときから、神は奉られてきたようだが、その神の存在を確かめることは出来ない。
 そもそも、在るものを、疑いやあらためて確認するなどは、その世界の人たちに不要というのかもしれない。

 しかし、信者には、それを確認しなければ、越え難い苦しみや絶対的全能の存在に自分は見守られているという救い感が、欲しいのだろう。それを神の”愛”なのだ、と。
 それが有ればこそ我慢もできるし、どんな苦しみにも耐えられ・・・と。

 だがそれを感受するには、その神だけへの弛まざる厚き信仰心を、一時も棄てることはできないしすべきでもない。それが、一神教である、ようなのだ。

 山を見ても、川や滝をみつけても、大木や大石を前にしても、「霊験あらたかなり」とか言ってその時限りで手を合わせるほどの、”八百万の神”の民とは、この点で大きく異なるようだ。

 ましてや、わたしごときは、大天災にのまれる被害者の阿鼻叫喚を見聞きして、「神などあろうはずも無し」と、そのテの片りんさえもを、綺麗さっぱり捨て去ってしまった。今では社寺などへの関心はゼロ。鳥居さえ避ける。

 この原作の、豊臣の時代の長崎の島々に広まって信仰されたキリスト教は、多くの信者たちを密かに生み増やし、やがてその宗教心を棄てろと弾圧された。

 キリシタンやゼウスなどはけして馴染まない。仏教こそがこの国に馴染む宗教なのだと、キリストや聖母絵像の板を踏ませる。それをすれば、キリスト教を棄て「ころぶ」ことを意味するのだ。早ようそれをせよ、と迫る統治の奉行ら。

 そうした迫害弾圧の様々に、耐え忍ぶ信者と宣教師たちの様子がこの作品の内容だ。

 けして止むことのない精神的制限と肉体的な拷問の数々に、彼らの信仰心はどこまで耐えられるか。神はいつ「沈黙」を破り現れるのか・・・。


                <了>

    −*−

映画「沈黙」

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