・・・・ 夢舟亭 ・・・・ |
夢舟亭/浮想記(随想) 小説「火花」を読む 2015年 07月31日 文学雑誌に文學界という月刊誌がある。 いわゆる純文学系。その本年2月号に「火花」という小説が載っていた。 年初の販売当時、数ページ読んだだけでやめてしまっていた作品だった。 それを最近話題になっているので、先日読みなおした。 芥川賞を受賞したという。 文才の人、この作者、又吉直樹氏は現役の漫才師ともいう。 受賞時学生だった作家もいれば、お寺の坊さんほかいろいろいが文学賞受賞者の職種だけれど、今回漫才師ということがひときわ話題になっている理由という。 と、書いたものの、わたしはこの漫才師の仕事ぶりを云々することが出来ない。 わたしが地上波のTV番組の、コントとかタレントひな壇バラエティなどの時間帯の視聴者でないことがその理由。報道番組と新聞で知ったにすぎないのだ。 であるから、あくまでもここで述べるのは、ひとつの小説作品を読んで思ったことであります。 まずお題「火花」だが−− 作者の実日常、つまり漫才師としての自分の生活を題材にした創作小説なのだろう。それはことのほか競争が厳しい業界だという。 作中、漫才のステージに立ち演ずる様子が描かれているが、観客を前にしたときばかりでなく、日々生活の中では常に、そのコト、つまり人をいかに笑わすことが出来るか、というその術、話術の工夫から気を抜かない。 抜かないというより、抜けない質(たち)になってしまっている。 だからコンビ同士はもちろん友人同士の日常会話こそが、話術の修業鍛錬の場機会となっている。 そうでなければとても、漫才コンビとして知られ名を売り、ファンを増やしテレビのその類の番組などに出るなどはありえない、という。 たとえ売れたとしてもまた、人気がいつ堕ちるか忘れ去られるか分からない。 業界の厳しさを始めとして、コンビ同士の瞬間的な軽妙で可笑しい会話などを「火花」の出るが如きもの、としたと読んだ。 それほどにも漫才一筋、ただ漫才に夢中に生きている若者たちが居るということを、一人の漫才師の若い主人公と、その彼が憧れる先輩漫才師との、師弟関係といおうか友情というべきか尊敬の念か・・・。 人はよく小説と作者の事実現実を同一視することがある。 だがこれなど、あくまで創作ものだろう。けしてそのすべてが作者のホンマものを書き連ねたものではないことは想像できる。 漫才業界のなかに一人の自分並みの若い漫才を想定して書いたのだろう。 と、いずれにせよわたしが読んだ雑誌での原作は、今やベストセラーとしての独立した一冊の本となったものと、まったく同じかどうかは分からない。 そういう場合往々にして推敲手直しされていたりすることが少なくないのだから。 良い小説もまた、世に連れ、で、時代を映す鏡であることは周知の事実。 コメディアンや漫才師などタレントがもてはやされ、映像時代の中の憧れの仕事として若者が目指していることは知ってはいた。 けれど一般サラリーマンとは異なり、いわゆる安定雇用による収入。生活補償などとは無縁の世界でもある。 もてはやされる人気者はあくまでも一握り。 そうなったとて、その期間もけして長いとは限らない。 それを左右するのが表現力、話術、笑わせの術でありそれを生み出す才能、その能力の高さであり継続持続力、ということなのだろう。 人はやがて歳をとる。 漫才であればコンビ同士の考えや、呼吸や相性も変わってこよう。 そうした大変さは、まさに火花の如きということなのだろう。 付け加えるなら、受賞後の実本人の小説作家としての才能のほうもまた、同じようにいかに開花継続出来るか・・・ 忘れ去られた作家たちも少なくない芥川賞であるのだから、して。 <了> |
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