・・・・ 夢舟亭 ・・・・ |
夢舟亭/浮想記(随想) 家出 2009年06月06日 幼いころ、どうしても欲しいものがあるとき、どうしたでしょうか。 親といっしょの買い物に町のデパートへ行って、おもちゃ売り場で。 ショーウインドウにおでこをくっつけて欲しいそれを、じっと見つめていたものです。 親のほうもそういう状況は充分想定していますから、その階やフロアの売り場配置をあたまに入れて避けるわけです。 でも子どもは買い物という退屈なお付き合いの時間つぶしのなかで、せめてもの可能性に期待するわけです。だから自然と足が向いてしまう。 そしてお目当てのものを見つめるわけです。 その姿を親はいじらしく思うだろうという思いを計算していたわけではありません。 小学四五年生にもなればそういう小賢しい策を練るようになるのでしょうが。 わたしのこの場合は、それ以下の年齢。 それでも家計との相談で無理なものは、だいたい分かっていました。 ですからあまり無理は言いたくない。 しかしそこが子どもです。 年に一度くらいは、どうしても欲しいものが雑誌や友達同士のやり取りからできてしまうのでした。 すると、だってみんな持っているんだよ、という例のお定まりセリフが口から飛び出すわけです。 もっともそれは今どきのような大層な、きこきこがぁがぁの機械メカニックや、ぴかぴか点滅電子エレクトリックな、大人ものではないかと思われる高額おもちゃではありません。 通りの駄菓子屋の店内につるされている模型飛行や凧(たこ)などなのです。 けれど当時日銭で働く親たちは、ほいほいと買い与えることはしないのでした。 なにせ毎日10円遣えるなどは恵まれていたほうです。 だからまとまったお金を要求されれば問答無用の拒否か無視です。 お母ちゃんそのくらいいいだろうぉ。買ってくれよぉ。 だめだよ。だいいちそんなカネこの家のどこにあるんだい。あったら見せておくれ。 なんだよ。みーんなが持っているものも買えないなんてぇ。うちはそんなに…… ああ、貧乏なんだよ。おまえ知らなかったのかい。 だぁってお父ちゃんが働いていつもおかねもらってくるじゃないかぁ。 たのむようぉ。買ってくれよう。弁当もってかなくてもいいからさぁ。 あれはおまえ、うちの家族の生活のおカネさ。 おまえのおもちゃのカネなんかじゃないよ。 弁当食わないでいられるかい。 そんなばかなこと言ってごねてないで、さっさと宿題しな。 ほんとにどこの子も持ってるのかねぇ。まぁったく今どきの子は贅沢なんだから。 店も変なもん売らないでほしいねぇ。 おれ、こんなビンボーな家いやだなぁ。 なんだよあれも買えないこれもだめって。 家出するからなぁ。 ぷっ。どっこで憶えてくたんだい。家出だってまぁ。ああ漫画だろう。 そんなことはどうでもいい。 買ってくれないなら、おれ、家出だ。 あーあー家出でもなんでしたら、いいさ。 無いものはないんだから。 お母ちゃんのばかやろうー・・ とまあ大概がこの程度のところの、買い物要求。 交渉決裂です。 どちら様もそうかどうかは分かりませんが、今どきのようにほいほいと買う親の「理解」など得られないのが常でした。 通常の小遣いと比較して大きいときの拒否や無視であり、当時の親の当然の姿勢だったのではないかと思います。 それは親の甲斐性のようなものでしょうか。 そうした壁を乗り越えるためのあの手この手をくりだす。 やり取りのなかで、その必要性とかどのくらい欲しいのかなどが試されるわけです。 そうした末にようやく手に入れる一品。 となればそれはもう宝でしかありません。 そうして育ったわたしたちだから、昭和の末期親になって、子どもの要求に応え誤ってしまうことが多かったのかもしれません。 そんなわけで、子どもとしてはあのまま引き下がるのが普通です。 だが反抗期も手伝って真剣に悩んだすえに行動を起こす・・ まさおぉ〜! まさお帰っといでぇ。ごはんだよぉ。居ないのかぁい。 あら奥さん。まさおちゃん、戻らないんですか。 ええ、そのへんで見ませんでしたぁ? いいえ。いつも早いのにねぇ。どうしたんでしょう。 まさかあの子…… 何か心当たりでも? おたくのよしおくんはどうですか、あのゴム動力の飛行機。 なんですかこの位の大きなので、飛ばす競争しあうとかで欲しがって。 ああ。うちの子、工作得意じゃないんで、飛行機は……。 うちじゃ、さっき帰ってくるとずーっとねだりつづけ。 だめと言ったからか……。 もう少し探してみますから。 町はずれであり家も少なく、一通りめぼしいところは見たようです。 けれど、居ない。 そのうちに父が帰ってくる。 中学の兄も帰ってくる。 で、みなで手分けして探しはじめた。 さて本人はというと−− 家出という反抗行動を知ったのは、母の言うとおりの漫画本。 世界の名作の、フランダースの犬。あるいは、家無き子。そして、ああ無情。 どのストーリーにも犬連れ独り旅などがある。 夕陽に向かって、一本道を。 遠い実の母を捜す旅に出るストーリーの、感動シーンなどに惹かれて。 いつとはなしに憶え知ったのでした。 もちろん、自分の母はといえば先ほど拒否された現実主義のあの人です。 けれど、何となく夕陽のかなたには、自分をより理解して温かく抱擁してくれるべつな優しい母が居るような気持ちになった。 それで自分独りで、出たこともない自分の町から、一本道をどこまでも歩いていってみようと決心する。 そのことで理解無い家族から逃げられる。 不幸な自分の悲しさを理解する親は向こうに居るんだ。 そんな物語を想像しては、可哀想な主人公になって演じた。 やがて夕陽も沈んで。 夕べの暗闇のなかに山や田畑がかくれて。 遠く近く、家々の灯りがともりだす。 家出の舞台設定はちいさな頭のなかで出来あがってきます。 と、何となく悲しくなってきて。 目が潤んで。 頬に流れておちる。 可哀想な、ぼく。 足は止まらず歩きつづける。 自分の町と隣町の中間では山道が険しくなる。 道の左右から生い茂った木枝がかぶさって垂れて、真っ暗なトンネル道ができている。 ほーほーとフクロウなどが鳴く。 その声に一瞬立ちつくす。 武者震いが小さな全身を走る。 月の無い夜。 真っ暗なトンネルの向こうに星がひとつ輝いて見えた。 それを目指して夢中で走り抜ける。 すると道の向こうに自分の町より大きな町並の灯りが見えだした。 と、今度は何となく楽しくなってくる。 お手ぇてぇ、つうないでぇ・・とかなんとか大きな声で歌っては、学校の行進のように膝をあげ、それに合わせて手を振って歩ってみる。 本人としては、要求貫徹というより、生まれて初めての大冒険を成し遂げる気持ちなのでした。 やがて峠を下ると町の入り口の大橋です。 ざあざあと流れる水に、とうとうここまで来てしまったという思い。 さて、どこに行けばよいのか、という動揺が湧く。 なにせ夕刻の隣町です。 子どもひとりが、そうしていれば目に付くのは当たり前。 おいどうした。見かけん子だな。 お巡りさんの制服というものは子どもには頼もしい。 けれど、やましいものがあると思うだけに、恐いのでした。 なにせ手錠と、本物のピストルをもっているのですから。 あまり優しい顔の警察官というのはありません。 どこへ行くのか聞かれるよりはやく泣き出してしまった。 ばっかものぉー! 連絡を受けて自転車で駆けつけた父の平手の痛いことといったらない。 小さな身体などぶっ飛んでしいます。 けれど、家に戻ってから。 独りでよく歩いていったもんだなぁ、と兄と母が顔を見合わせて驚くのを見たとき。 なんか知らず、ちょっと自分が大きくなったような。 そんな自信がほっぺの痛みに加わって感じたのでした。 そのしばしの家出は、最初の目的である肝心の買い物の要求には逆効果であったのは言うまでもありません。 <了> |
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