・・・・ 夢舟亭 ・・・・ |
夢舟亭/浮想記(随想) 田舎なれども 2008年 03月21日 この10年くらい前からだろうか、都会から田舎に住もうとする人が増えたらしい。 じっさい私もそうした人を知っている。当地の山にこもって茶碗を焼いている人もいる。 当県では過疎化が進む地域では住人を増やそうと呼び込みの策として、空き家を提供をするという。 たしか元首相もそういう生き方をしているのを新聞で見たし元宇宙飛行士もらしい。 都会の良さになじめないで、田舎に魅力を感じてのことだろう。 だがときには誤解したりして住み移る人も居るようだ。誤解してとは、夫婦で住み移ったものの、冬の寒さやあまりの山村の静けさに滅入って都会へ逃げ戻った話もあるのだ。 観光や一時の避暑では分からない自然の厳しさを前にして驚いたらしい。 逃げ戻らないまでも、こんなだとは思いもしなかったという声はよくあるようだ。 天候自然だけでなく、都会で当たり前なことや、今まで経験した常識が通用しないで誤解や不満もあるという。 だがよく聞けば、都会か田舎かの問題ではなく、「都会もいろいろ田舎もいろいろ。 入る人も受け入れる人もいろいろ居る」と認識できていないこともある気がする。 そう云う私は都会でもなく山奥でもない中間的地とでもいう辺りの住人だ。 山川草木花鳥風月に恵まれていると満足している。 高原あり湖あり温泉あり、海も遠くはない。 JRも路線バスも通り。高速が交差して新幹線駅もある。 あれもありこれもというが、近くても2km。クルマで30分でアクセス可能という程度だ。 元々がこの地域の育ち。幼いころから何度か県内各地に住居を替え、都会にも住んだことはある。 だがこの話では田舎側からこちらへ住もうとする都会人を見る立場としたい。 そもそも都会を後にしてまで住み移ろうというからには、何を求めて来るのか、をしっかり自覚することが肝腎だろう。 いうまでもなく山の彼方とはいえ幸せが約束された理想郷ではない。 地方に行けば拍手や紙吹雪で迎えられる王様になれるわけでもない。 地方の人が都会の人より知恵がないなどと思ってはとんだことになる。 田んぼのあぜ道で頭に枯れ葉をのせて化けそんじるタヌキのように、化かすつもりが自身の尻尾の毛の色まで読まれる。 都会を都会にしたのは地方出の人であろうことは著名な方々の出身地を調べるまでもなく、地域と住む人の資質は必ずしも関係はない。 それどころか都会で上手くやれなかった人が田舎で上手くやれるのだろうかという疑いだって持たれないとはいえない。 どこに住んでも同じく大切なのは、人が一家を構えて生活することの意味や苦労を理解していることではないだろうか。 郷に入れば郷に従えといわれるが移り住む者の初級だろう。 都会か田舎の別なく、近隣町村からあるいは海外からの転入だって転校や転職でも、入る者の立場はさほど変わらない気がする。 そこでは良くも悪くも新人歓迎のある種の「儀式」も受けることがあると思う。 田舎に夢を抱いていれば期待やこだわりがある。 隣近所の土地柄独特の目が気になり過敏に反応もしてしまうかもしれない。それは入ってきた者の通るべきものだと思う。 人間力が試される関所として、子どもだって犬猫だって初対面は角突き合わせ牙をむき臭いもかぐ。 場をうまく越える能力は要るのだ。対応の出来具合は経験や人間性が左右するだろう。 処理を誤れば後に尾を引くかもしれない。 田舎だからという特殊な問題ではなくどこでもいろいろな人的交流は待っている。 一夜でうち解けたり誰かがきちんと保証してくれるわけはない。 他人の人生を歩めないように、そこで生まれ育った人と同じ背景や思いにはなれない。 生育の地か他地の生まれかの違いは心に深く、何年経ったところで埋まるものではないと思う。 江戸っ子と云ったって三代目で口にできるという。在日異国人もそれは同じだろうし、移住した人たちも現地人と血が混じって了解されるという。 私も当地は30年をとうに越えているが未だ新参者だと感じている。 今回某長をもってやっと当地の者と思われるかもしれない。 転職経験者なら分かろうが、思いこみ、お客さん意識の甘えなどお世辞の段階を越えた先で、相互の心が落ちつくまでの時間はかかるものだ。 それでも、捨てる神あれば拾う神ありというごとく、鬼ばかりの地などない。 また田舎には何も無いというのを耳にする。 そうではなく、都会と違った質のものがあるというべきだ。 異次元で異質な価値を知って魅せられたから、わざわざ慣れた生活を捨てて来るのだろう。 来て失望に変わるかどうか。受け入れられそうか。魅力から欠点を引き算したとき、自分が住むに足るかどうか。 悩みは尽きないだろうがそれが人生だ。 村社会は人間関係中心という。 昔の都会の江戸落語など聞くと、大家さんは詮索魔でお節介だ。現代のコントなど見ても何であれほど互いにチチクレ合うかと不思議になるほどだ。 実はどこもかくも人間ニンゲンまた、にんげんなのだろう。 都会だって大正昭和の人間関係は今の田舎以上の隣三軒両隣が当たり前だったはずだ。 昨今そうした人つき合いに郷愁を感じて当時の風景を創った邦画が多いではないか。 孤独世捨てを決め込もうというなら、国内でもよほど山中山奥に踏み込まなければ難しいと思う。 田舎は古く遅れているという声も聞く。 土着というごとく代々土地に根を張って風雨に耐えて守ってきたのだ。 保守的傾向は強くあってしかるべきだ。 そこでは軽快なフットワークの都会的即決型の考え方が最善かどうか。 認めない地方は悪いか遅れているか。 変化の負の部分はないかよく考えるべきだと思う。 声高に叫んでねじ曲げたら悪しき都会になっただけというのでは話にならない。 たかが数十年一個の人生の知識が、代々の集落の長い歴史や伝統に裏付けされた生活文化を超えと簡単に言いきれる精神なら私も疑いたくなる。 考えや主張が夢話でなく現実的に深く考えられているかは、上下左右から広く眺め回す必要があり、住む地の別ない大人の思考だ。 長老の頑固さが地方にはあるともいう。 国を動かす政財界や官僚だって一般企業だって都道府県政治だって。 人間組織は経験の豊かさ濃さ長さをもって長とする傾向があるのではないだろうか。 そうした人の場で、持論をとくと説明主張して、了解承認得て進むことは都会田舎の別ない組織の運営の条件だと思う。 もちろん大勢の了解納得というものはなかなか得ら難いのはどこも同じ。 都会だって、誰でもわけなく理解され信用を得て、共感や支持を得ることが出来るとは思えない。 都会で出来ないで田舎なら出来るというだろうか。 田舎とはいえここ一番はけして甘くない。 何といっても家族を養う実生活の場なのだ。 そうそう軽々しい動きはできない。都会だって生活確保の厳しさは同じだと思うがどうだろう。 またなかには古式の冠婚葬祭があるのも困ると聞く。 元々が人間相互の祝いの心遣いや、互助の精神の行動であってみれば、近年まで続いて行う所も多いと思う。 代々住み着いていれば親類縁者も多い。 墓守家主となれば、仏事法事ほか祝儀や不祝儀に義理は欠けない。 単身気ままな生活で困ったときの親頼みでいた人と同じ意見にはなれるまい。 幼いころに三日三晩の自宅祝言の様子をよく見たものだ。 今思えば準備も行うのも後片付けもさぞ大変だったろうとため息がでる。 だが「大変」であればこそ一家の一大事業である。 先祖代々や後代に恥じない一世一代の成功を果たす気構えと責任感がある。 招いて祝されて褒められて客退いて。 無事果たし終えた人々の顔は数段上の満足感がみなぎる。 この後見下されない村民として家長としての自信誇りの裏付けだ。 祭り行事の実行などは企業の大プロジェクトの責任者や代表の経験者ならよく分かる心労だろう。 皆がそこまでやるかどうかはともかく。 苦労する人が居るから大勢が楽しめるのだ。 名誉ある大役をこなす能力の人はどこに住んでも頭角を現し尊敬も集まると思う。 良し悪しはともかく伝統であり格式であり文化はそういうふうにして培われ伝承されてきたのだろう。 人々の交流の薄さ乏しさに虚しさを覚えて、集団お金儲けの効率第一主義に疲れて、田舎文化憧れ心が湧いて、和気藹々の田舎に住みたい思いに至ったのなら。 煩わしい相互の関心や接近は、近所目に対する恥意識に通じることを理解できよう。 躾や育児の面では他人目は貴重だ。 未婚者独身者への気遣いのお節介も、考えようでは大いなる親切であった。 他家の台所事情が分かっていれば手作りの菜をもって訪れるのだ。 ケータイでは出来ない思いやりだ。 とはいえ昨今の田舎はかなり個人主義に向かっている。 悪しき都会型犯罪が地方に分散しているのは報道にもある通り。 人間関係も疎遠になって、私なども恥ずかしながら近所の人々の氏名や家族構成など分からないし憶える気がしないでいる。 こうしてみれば地方も村復興のための人物を、企業再建のように厳選して集めるべきかもしれない。 真剣に考えている人は大いに優遇するべきだと思うのだ。 良い条件には狭き門から入れ、という世の習いがある。 村の未来を託すための村民を選ぶということは賢明だろう。 村民確保のとき希望者はケネディの言葉のように、あなたは村に何をすることが出来ますかと問われよう。 私はこれが出来ます、とプレゼンテーションで訴え願うことになろう。 どんな点に魅力を感じてて当地を選びましたかと問われれば、歴史も伝統も地形や隣辺地域の下調べなしには来れまい。 人生経験をいうなら葬祭や介護経験、子育てだって役立つだろう。 電気会社のCMではないが、互いに能力を持ち寄って活かして良い村をつくり、子や孫に渡したいではないか。 それには受け入れ側も予備知識もコミュニケーションも増すことに心がけるのは云うまでもない。 けれど自分の側は何もせず、お客様として、住んでやる、楽をしたい、気ままに過ごしたい、放っておいてと注文の多い人なら。 そうした人を受け入れる面白楽しき別天地がこの地上にあるかどうか、ここはよくよく考えるべきだと思うのだ。 <了> |
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