・・・・ 夢舟亭 ・・・・ |
夢舟亭/浮想記(随想) 自分のいたわり方 2011年02月14日 「不景気ですねぇ」「いやまったく。世の中どうなっちゃうんでしょ」 日々のニュースにそうしたムードは絶えません。 放送も企業ならお仕事として、今日のニュースほか報道番組時間を映像や音で満たさなければならない。明日の番組表も穴をあけるわけにはゆかない。 スポンサーが喜んでこのさき何年も提供支援金を約束するようにと、とりあえずは興味本位で並べろと、懸命なのかな。公共の放送だって油断できない。お手軽なものを見かけますから。 いかに平和病と揶揄されるわが国といえど、きな臭い爆炎絶えない世界といえど、毎日毎夜ぴたりと同じ時間幅を満たすほどのニュースがあるはずもないのに。 それは新聞でも週刊誌でもおなじ。視聴率や購読数の絶えざる向上につとめることがそこに働く人の生活の安定につながる「良い仕事」。自社の利益を最優先するということでは報道も宣伝業。ごく一般の会社です。 そこで少しでも人々の興味をひき好奇な驚きの思いをくすぐるテーマを、針小棒大に腕によりをかけ、加工仕立てる技の競演となる。とくに「不安」をかきたてることは、人間我ら視聴者には効き目があるようです。 そこで、不景気はいつになったら回復か、あなたは生き残れるのか…… 安易な手だといえばそうですが、これがどのチャンネルも、どの新聞もとなると。沖縄から北海道まで全日本列島全土、津々浦々へこの不景気気分をばらまかれれば。その冷風感をいやでも伝染してしまう。眼を奪われ、なかには不安風邪までひいてしまう。視聴者の悲しい性でしょうか。 さらにまた昨今は、貧困、という言葉もよく飛び出します。そうそう、無縁、というのも。まるで今どき突然に襲ってきたかのような大げさぶりで。 ニッポンはどうなってしまうのだ、日本人の心に何が起きているのだ、と。まるで歴史をたどれば、過去には貧困も無縁もなかったかのように。万人が何の不安も感じない幸せ社会から墜ちてしまったと言わんばかりに。 そもそも、異常と正常、の基準などあるのでしょうか。 地上は弱肉強食、人間社会とはいえ法こそあれど、奪う者騙す者と奪われる者騙される者との関係はさほどかわらず現代でも続いている。そのどちらかで、あなたもわたしもが食いつないで来たのではないでしょうか。程度の差こそあれ、です。 ひとつの例が、本日2月14日に大売れするチョコレート。その素カカオ豆。 生産国の幼い雇用の現状はまことに悲惨でその流通経路では搾取があるとか。その末に先進国の彼氏の笑顔があるということは……それだけで我々も罪がゼロとはいえない。 いやそもそもチョコにかぎらず商品売買のほとんどで、どこか騙しの罪悪感は無きにしもあらず。 そういう現実のなかに生を受けて、生身で生き抜かねばならないのが我ら人間。であってみれば、まず己が自分の足で立っていなければならないことはいうまでもない。世の中食うか食われるか。 そして人生とは、悲しいこと辛いこと苦しいこと切ないこと寂しいことがいっぱい。そのたびに声をあげていても仕方なし。生きてきた限り少なくとも生老病死は覚悟しなければならないのだし。 辛苦の度合いは自分の上を見てもきりがないし、下を見ても際限なくあるのが世の中。その度に他人の助力をただ待つというのも情けない。そうした人総てを助けるなど神でもできないはなし。泣き寝入りなどして自分に欠けている何かによって現状に甘んじているというのでは、生きる力がないではないか。 以前にわが国で子どもに「生きる力」をつけるようにと、教育機関へ指導伝達を図ったことがあった。当時多くの批判のなかでそれが消えていったのをよく憶えている。 けれど今はもちろんいつの時代も、老若男女みなが「生きる力」こそ一番身につけるべき知恵であり能力だとわたしは思うのです。 「生きる力」とは、生き抜く知恵であり辛苦障害を越えるための工夫力かもしれない。自分を支え励ますもう一人の心の友としての、自分の確立かもしれない。 世の中にあふれるデマやウソに覆われた情報から、自分にとって必要なものを惑わされず選び出す力であり。熟考試行錯誤して、自分のために活かす力かもしれない。ときにはものおじせず他人へ言うべきを伝える勇気も。 ということは、生きる力はけして魔法の杖やドラエモンのポケットのような、金銭や物質面の即満足感というより、自身の内面の明るさへの方向転換術というものかもしれない。 心の貧しさは意志の弱さとして表情の乏しさ無力感として現れてしまう。 衣食住を考えるなら、自分は幸せとはどういう基準をもつか。贅沢と質素の関係。富と倹約について。使い捨てと豊かさはイコールか。清貧と倹約は同じか。消費は美徳か。自分にとって労働はどういう意味をもっているか……などなど。 そういう力をもってこそ文系であれ理工系であれ自分の道をしっかり見いだして、モノにすることができる。と同時にまた、国の方針などとはいっさい関わりなく自身の思いとして、どんな誰をどれだけ好きか嫌いか、一緒に生活を築きたいかそうでないのか、子どもを育てたいのか要らないのか……。そしてその先で、どのようなセカンドライフを望むかということにもなるのは、論を待たず。 いずれにせよ「生きる力」とは力、エネルギーでありパワーだろうから、熱が帯びるものかもしれない。生命の熱の量か。 その元には心身の活力。日々の喜怒哀楽に振幅が加わるのではないかと思うのです。 物事に、関心をもつ、意欲が湧く、興味をいだく、好奇心がある、向上意欲がある、行動力が湧き出る、満足感を味わえる、達成感を自覚する、充実感を得るなどが癖となっている人のように思うのです。 「どのくらいそれをしたいか、したくないか」をしっかり自覚する。 そういうことを幼い頃から身につけることが「生きる力」をもった一人の自立人の成立だと思うのです。 もちろん、そうは言っても理不尽で不可抗力というべき人生の障害は数多攻め寄せてくる。そういうときでも、少しでも積極的前向きな思いで、生き方を選べるのが「生きる力」だと思うわけです。 そうそう社会の仕組みを活かし利用応用するのも、生きる工夫であることは言うまでもないですね。 以上のような思いからわたしは強い生きる力を育むことの基本として、「自分なしでも世の中はなにも困らず充分間に合うのだよ」という事実を子どもに教えています。若者には無限の可能性がただ空から降ってくるわけではないのだ、とも。 だから自分の存在理由は自分で考え生みだし、自分を自身で支えて生きてゆくこと。だから自分のいたわり方を間違わないように、と。 それはけして聖人君子の生き方などではなく、ごく普通の生き方なんだと。 <了> |
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