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夢舟亭
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夢舟亭/浮想記(随想)
 


 
  映画『おじいちゃん、死んじゃったって。』
                        2018年 06月24日
 

 さてさてどう言えば感想となるのか・・・。
 
 種々映画祭賞受賞が記された公式サイトを見ると、その思いを補う一節がある。
 
「誰も泣かなかった。それでもみんな家族だった」と。上手い一言だなぁ。
 
 報せを受けた孫などは、自分も顔を出さなきゃいけないのかなぁ、と冷めた顔で電話につぶやく。
 
 喪主を譲り合う息子二人の様子に、まぁこの年齢まで生きてみて来た自分が思えば、”あるかもねぇ”か。
 
 説明が遅れたが、ある老人(80歳台)の死、その報せの電話から始まる作品だ。
 
 その死者の連れ合い老婆は、痴ほう症。だから息子も孫の顔も、分からない。
 
 混乱しつつ自宅通夜と後の葬儀、そして火葬。そうした”いろいろ有り”のあとに、おばあちゃんを施設に預ける、に異議はでない。
 
 さて、この手の作品を観慣れた方は、「始め混乱でも、まぁおそらく最後には皆が仲直りの目出度し」ものと思われるかもしれない。
 
 観終えて、そうとは言い切れない、とだけバラしておこう。
 
 そこに、この作品のリアルさ、自然さ、人々の憎めない”本音”が伝わってくる。
 
 つまり、みんないい人、ではない。
 
 幼少のころに、末は博士か大臣か、などと親を祖父母を微笑ませ期待させたはずなのに。
 
 でもそれってフツウじゃないかな、と言えば異論や反論があろうか。
 
 子どもも孫たちが、老爺婆の思い出を語りつつも、それで自分の生活を犠牲にしてまで変える思いにどは、まったく出ない。
 
 そりゃそうでしょう。皆精一杯の生活なんだからね、ということだろう。
 
 こういう本音こそが自然ですんなり納得。
 
 今では古いホームドラマや、単なる説教じみた、あるいは宗教っぽい人情ものに、”ウソ臭さ”を感じるわたしなどは”すとんと落ちる納得感”。
 
 「普通は」、「常識的に考えて」、「誰だって」、という枕詞で言い交わす物事には、”そういう事になっているハズ”だし、”そうしなければ言わなければ人としておかしく認められない”、という人や事々の何と多いことか。
 
 そういう綺麗事の時こそ、実は、自分の本音さえ自覚できなかったり、自分をだましたり誤魔化したり、隠したりしているものだ。
 
 自分自身が一個の生身の生活者である、ということを、である。
 
 いや、生活に余裕があればあるほど、と付け加えたい。
 
 人とはそんなものさ、ということ。
 
 わたしなどはSNSなどにこそ、そういうわたし的にはとても”不自然さ”を感じる「きれいごと」を書き込むことが多い。
 
 そうした中で「ウソつけぇ」とばかり本音を申し立てたりすれば、”拒絶”の立て札を立てられることがあるのだが・・・。
 
 そういう本音の中に、ほんのわずかな何か。
 
 その人の”人間性”とでもいうべきものが、ほんのわずかきらりと発光するときなどが、あるのではなかろうか。
 
 そうした本音を素直に表しつつ、正直に生きている家族の素顔が、観終えて快かったのでした。
 
 
 
                <了>

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映画『おじいちゃん、死んじゃったって。』


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