・・・・ 夢舟亭 ・・・・ |
夢舟亭/浮想記(随想) 人生ヴィデオテープ 2011年 03月08日 自分そのものがこの世に存在しない、ということを想像したことがあろうか。存在しないというのは、生まれてこなかったとしたら、と言い換えることができよう。 この世に産声あげて生きてすでに数十年過ぎてしまった自分が、自分がこの世に生まれてこなかったことを考えるというのも可笑しい話ではあるが。だがしかし。考えてもみなされませ。そろそろこの世ともおさらば、という年齢域に達した人ならば、思いめぐらすには格好の時とはいえまいか。 ヴィデオテープを巻き戻すように自分が生まれる頃までへ。たった今この場の映像から、早戻し始める。今朝の寝床まで後戻りして、しばらく寝込んだまま。つぎに夕べの寝床から後ろ向きに起きだす。 で、昨日の行いが二十四時間さかのぼる。さらに一昨日の起床そして就寝とさかのぼり、やがて一週間前の自分が映しだされることになる。 こうして自分の日々の様子をどんどんさかのぼるにつれて。思うだろうことは、何となくそこに動く自分が他人に見えてくるということ。と同時に、そんなことしたっけ? というように、記憶はかなり曖昧なものと感じるのではなかろうか。 他人に見える、というのは身のまわりに溢れる今どき映像の時代に慣れてしまっているからだと思う。交通事故でも戦場でも惨殺シーンでも、どんな映像を見ても驚かない。すでにある種の脳のマヒ症が誰しもある映像時代人。そうした日常目にする映像の一つとして、自分の過去も見えるだろう。 そして記憶の不鮮明さというのもまた誰しもあろう。よほど衝撃的な出来事がわが身を襲った時でもないかぎりは。昨日、一昨日、その前日と、食事のおかずさえも思いだせないのは至極普通のこと。たとえアルツハイマーの可能性など無の人でも、である。 下手をすると、自分の家族に関わる冠婚葬祭の当日の記憶さえがうる憶えだ。それでなければ結婚記念日を忘れた夫をなじる妻などありえまい。涙ながらに母の思い出を口にするくせに親の周忌日をすっかり忘れている人など珍しくもない、とはある僧の話だ。 であってみれば安穏な日常の一ヶ月前の自分などは他人そのもの。何せ人は日々の記憶など確かめながら生きてやしないのだ。であれば一年、三年、五年前の自分など、どんな生活をしていたか、思いもよるまい。せいぜいが、あの頃は多分某とつき合っていたとかどこに勤めていたとか何を学んでいたという程度。そうであればかえって物珍しい様子として目に映ろう。 そうした自分の過去への旅が、「神のヴィデオライブラリーから借りたテープ」によって出来たとして。自分が生まれでる瞬間までたどり着いたとして。その年その日はどんな一日だったのか、は、ちょっと見てみたいのではなかろうか。 もっとも現代情報化の世では、誕生日を指定するとその日の新聞が見られるらしい。ご丁寧にプリントまでしてくれるとか。 とはいえ、さすがに自分という一個人の誕生のときの、周囲の人々の様子までは分からない。でも「神のヴィデオライブラリーから借りたテープ」にはそれが映っていて、現在の自分の子どものような歳格好の男女、それは両親らしいのだが、の表情が見えるはずだ。 その日から人生路を旅してきた自分の目に、さてその二人の表情が、どう見えるか……。 これはちょっと意味深なことだといえる。つまり自分の誕生が、目にする若き両親にとって、吉か凶か。いやそれほど極端な表現でなくとも、喜ばれた誕生だったのか、ということは分かってしまう。 もちろんその後に、自分を育ていた中で親の口から、唯一無二の命として誕生を心から喜んだ、とは聞かされたろう。けれど本音かどうかは分からないではないか。 けれど、現在人生の完成域に至った自分の目を誤魔化すことはできない。何せ自分より歳下の男女の表情なのだ。まして「神のヴィデオライブラリーから借りたテープ」は本人たちが知らぬ間に隠し撮られている様子なのだから。 さらに、この自分の今の存在に関わる二親、若い男女が結ばれるまで時間をたどって見るなら。自分の誇るべき生家、親が懸命に築いたはずの家庭の成り立ち課程をたしかめることになる。 そしてその様子を目にするとき、ほとんどの人は、これまでの自分の過去と重ね合わせ比べるのではあるまいか。そうした比較で、どちらが素晴らしく理想の人生だあったと結論づけたいか…… これもまた、なかなかに興味深い思いだ。 さてここまで時間をさかのぼると、その先へ過去をたどって両親の子供時代や、さらには祖父母の様子も気になろう。また現代のネット検索のように、兄弟姉妹の生き様を見たいという人もあろう。いやいやそれよりも、思い出のあの人の、という向きもあろうことは想像に難くない。 ではあるが、私がここで問いたいことはそういうことではない。 もしもこの「神のヴィデオライブラリーから借りたテープ」でたどって見て振り返って、自分のこの人生路そのものがこの世に存在しなかったら。ということを思ってみようということだ。早い話が、自分が生まれていなかったら、ということになる。 自分の曖昧な昨日より前の、過去の記憶が録られている人生そのもの。途切れとぎれの時間の断片で成り立っている命のテープ。うる憶えとはいえ、自分だけのこの命の長いながい一本の時間の帯。それがそもそもこの世に存在しなかったら、どんなだったろう、と。 子どもでもすぐに言えることは「べつに何も変わらないと思います」か。 たしかに、たいがいの人間はさほどの社会への影響力などないだろうから。その存在で世の中やその歴史が変わるなどという思いは妄想だろう。 とはいえ世の中を変える力というものは、英雄ひとりの行いでもないわけで。いかなる理想を掲げられても、口角泡を噴いて力説されても。それが実際に結果として具体的に形にならなかれば、無いのとおなじ。そしてそれを行うのはいうまでもなく、この世に存在している普通一般の、社会の一人ひとり。 というなら、案外に自分の存在も世の動きの元になっていて、存在の意味はあったのかもしれない。 いやいやそういう優等生的な価値判断よりも。 「神のヴィデオライブラリーから借りたテープ」により自分の人生をたどって見て。自分の生きてきた様子から、自分自身がいったい何を思い、その意味をどうとらえるか。 他人口外自慢する必要もないだろうこの本音を、独り思ってみることは有用だろう。 誰の雑言も交えずただ独りで思う。このことが何より意味深い。 なにせたった一度ぽっきりの命の時をたどって来れた自分が、この世から去って後にも「神のヴィデオライブラリーのテープ」に撮られ。先々の自分の子や孫が、見ては思いめぐらすだろうことだから。 いや実際「神のヴィデオライブラリーのテープ」などは無い、というだろうか。 しかしながら、たとえば通夜や葬儀、そして周忌の膳をまえにした兄弟姉妹、子や孫が、縁者が、「そうなんだ。あの人はあの時本当に……だったのだと思うんだ。だってさ」などと、それぞれの頭と心のなかのヴィデオを再生し見せ合っている。こうした故人を振り返る光景はよく見かけるはずだ。 あの瞬間こそが、生前自分が関わった人々のなかに存在する「神のヴィデオライブラリーから借りたテープ」の自分の偽わざる一シーンであろう。 そしてそれこそが、自分がこの世に存在したことの何よりの証明ではないだろうか。 <了> |
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