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夢舟亭
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夢舟亭/浮想記(随想)
 
 

  ノーベル賞選考の粋
             2016年 10月15日



 ノーベル賞、といえばあのノーベルの発明、ダイナマイトいわゆる爆弾が元。

 ノーベルの膨大な資産財産の管理を任された財団が主催する、世界貢献度のきわめて高い偉業に贈られる賞のことだという。

 わたしなどのような屁曲がりには、この地上を支配する白人の方々のルール、そのひとつぐらいにしか考えていなかった時期がある。

 何でもかんでも世界一なら珍しいならマル、のギネスや映画アカデミーなどと同じほどのものかと。

 そうでもないようだ、と思ったのは大江健三郎氏の文学賞受賞に関して、国内での「元」現人神雲上人からの勲章辞退。

 ほう、なかなかやるなぁと感心していたら、海の向こうのあちらの賞は有りがたく頂くとの微笑みが報じられた。
 ってことは、かなり有りがた味があるのだな、と。

 それで過去のノーベル文学賞受賞作品を図書館で漁って読んだ。
 けして娯楽本などではなく、訳書とはいえ美文ともいえず楽しい内容でもなかった。

 だのに、なるほどなぁと少し分かった気がした。
 各作品相通じる人間社会観がそこにある、とでもいえばよいのか・・・。

 読後には文学をナメたらいかんなぁと思ったものだ。

 その文学賞に今回歌の、歌詞が選ばれたという。
 正確にいえば、この賞は作品そのものというより、作者の考え方取り組み姿勢に贈られるものなのだろう。

 その人の考え方で生み出してきたものが、社会、世界の人々にどんな影響を与えたか、だろう。生き方を人生観を変えるほどに・・・。

 今回の作詞の氏へ贈るということは、作者の思いがいかなる世界観を示しているか、それが世界に対して価値あるものだと財団が認めたということ。

 言葉、文章、となっていれば、それがメロディーに乗せて歌われようと朗読されようと、黙読されてもたいして違いはないということなのだろう。

 たとえばこの氏の作、「風に吹かれて」は--

  人はどれほど砲弾を飛び交わせば永久にそれを禁止できるのか。
  人はどれほど自由を束縛されることを見ないふろをしてるのか。
  人はどれほど人が死んだらその死に気づくのか。

  といったふうな歌詞と、いう。。

 もちろん歌ならばその価値は、メロディーも大切なわけだが、作詞作曲者であるこの人は自作自演でもあり、あの当時海を渡ってきて、わたしなども耳にした。
けれど、悲しきかなこうした詞であることは分からなかった。

 言葉、文章による社会や政治への異議や問題の指摘というのは、歴史的に多いと思う。
 先に受賞した多くの作品群もそうしたものがほとんどだと今思う。

 しかるに多くの人が巷で口ずさむ歌では、問題意識を喚起するものは、この歌の当時のベトナム戦争のさなか、アメリカの若者のフォークソングで聴いた気がする。反戦の声としてアメリカ政府に批判の思いとして・・・。

 そういえばわが国も一昨年、ある歌のグループが、ピースとハイライト、という歌を有名な音楽番組で歌った。

 時あたかも憲法改変の意思やアジア諸国への冷姿勢を示していた日本政府へ、疑問の声ともとれる歌詞であったことは多くの視聴者が感じた。

 その翌日に、放送関係者はじめ政治側から遺憾の意が出たようだ。

 ネット上でも賛否両論が交錯したのだろうが、わたしなどはこういう歌表現は大いに賛成派だ。
 下手なネット書き込みなど到底及ばないほどの影響力があると思う。

 多くのかたは、ニッポンのこれと、欧米のかたがたの歌では次元が違う、などとしたり顔で無視されるかもしれないけれど、この例でも分かるように、影響力は書物と大して違いはない。

 まして勇気のないニッポンの男性作家の社会や政治への批判力はまだまだだと思うので、今後はニッポンも歌詞を活かしてほしいものだと、ノーベル文学賞の粋報道に思ったのでした。




              <了>


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