夢舟亭 創文館(随想・エッセイ) ”転んだ先”の杖 2021年01月10日 すってんころりん。 雪道で転んでしまいました。 転ばぬ先の杖、というのはあるのはもちろん知っています。 ことばでは分かっているけど、出来ないしやれないのがこうした故事コトバの意味するところ。 お尻をさすり散歩から帰宅のわたしに家人がトレッキングや登山ではストックを見かけると。 まぁねぇ歳を考えれば、雨降りには傘をさしなはれというコトバを遺した商翁の言のように、無理ややせ我慢は見っともないとも。 ストック、というがしょせんは杖だ。しっかりした足があるのになぁんであんなものを、という慢心気負もあった。だからすたすたとカメラを肩の慣れた散歩はだいぶ長い。 で、今回雪道の氷結面で足を滑べらせた。大事に至らなかったとはいえ冬道要注意だ。 言い訳などいくらでもあるが、まずトレッキング靴の底が減ってしまっていたのは最悪か。 とはいえやはり無理の利かない身体反応力という点は、見逃せないと自覚。いうなれば衰え。 そんなわけで翌日から家人のいうのに従って、杖を。 ”転んだ先”の杖だ。 でも自宅玄関から杖というのではなく。 スポーツ用具店からの購入でもなく。 コロナ期に至る以前よりマイ散歩林道コースは無人、が常なのでマスクはポケットで使われることはほどんどゼロ。そんな山道にこの季節は、枯れ木落ち枝がそちこちに見つかる。 手頃と思えるひと枝を拾って、不要な葉や枝を折り払えば、黄門様のとまでは言わないけれどいい塩梅の杖が出来上がる。 落ちていれば枯れ木、でも、手にすればすでに立派に、杖となる。 そんなふうに何度かの取捨選択、その繰り返しで、杖にふさわしい長さや太さ重さを得る。 重すぎるのは1時間も歩くには疲れる。 軽すぎるくらいの細さでは頼りにならない。 とはいえ杖を使ってみて分かったのだが、けして全体重をかけるというために杖を使うのではなく。あくまでも手を添え歩くバランスをとるのが目的。 足の不自由な要介護人の手を、ちょっととってやるだけでスムーズに歩けるのと同じかもしれない。 名勝地の春秋にトレッキングで行き過ぎる若者が、左右両手にストックをもつ姿などは珍しくないなと思いつつ実際やってみると、細めの杖で充分効果あり。 手にしているだけでスムーズに歩け、かなり疲れが少ない。 手作り杖が手に馴染んでしばらく歩き、目先にもっと相応しい様子の枯れ木など転がってあると、ついそちらに手を出してしまう。目移りというやつか。 ほう、いいねと持ち味の良さを確かめ、交換してしまったり。 そうして置いて去るほうを日々通る山道の太木の根本に立てる。 後日通って気づけば数本にもなっていたりする。 それに小雪など降り付いていたりするのへ、「おう寒いね」などと声をかけて雪を払ってやったりするのが、我ながら可笑しい。 一宿一飯の義ではないが、一度手にした枯れ木の杖たちが身内や知り合いののつもりなのだ。 そんなくらいだから、急坂が絶える地点や散歩道の出口で、道中手にしていた杖をここまでと、木の根元に置き去るとき、ちょっと振り返ってしまうほどの寂しさが湧かないわけはない。 冬のこの季節、林道は枯れ葉が敷き詰められていて、被写体の可愛い野の花たちは無い。 だから散歩写真となれば雪景色がほとんど。 したがって撮るよりも独り瞑想などしながらの散策となる。 そういう足元注意の杖散歩もまた楽しみのひとつとなった。 |
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