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夢舟亭
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<この文章は商業的な意図をもって書かれたものではありません>


文芸工房 紅い靴 エッセイ   2005年12月29日


   ベートーヴェン交響曲第六番「田園」



 どのくらい本当の話かは分からないけれど・・。
 第九(ベートーヴェン作曲交響曲第九番)の演奏会が、年末歳末の恒例になったあの経緯だが。
 終戦間もない頃の演奏家たち多くのフトコロを、少しでも満たそうと演奏会を企画し、仕組んだことが始まりだという。

 それが日本だけの事なのかあるいは荒廃した世界大戦終結各国のことなのか。

 いずれにせよそういう考えのもとに行った人が居たとすれば。
 何とも心温まる社会的指導者といえるのではないでしょうか。

 今どきは、人々のとくにアーティストの生活援助などをマジで考えるキトクな人は、まづ見ませんし聞きません。とくにわが国では。

 皆が貧しく生きていたその時期に、市民に向かって声援に音楽を贈り、また演奏する者にはともに歌い奏して、幾ばくかの年越しの糧を配ろうというなら。

 そういう形で聴くも演奏するも音楽の火を絶やすまいとする思いは素晴らしいと思います。
 これにはあの苦い顔でおなじみのベートーヴェンもさぞや微笑んでいる気がします。

 ベートーヴェンが生まれたのは1770年。
 市民から搾り取った血税を喰いあさる王侯貴族中心社会にもの申し始めた時代に。
 先祖代々貧する下層市民が、社会の段差格差に疑問して叫びとなって。
 市民から立ちあがったナポレオン。

 彼にはベートーヴェンも期待感が大いに湧いたとされます。
 つまりは市民の沸き立つ自由への熱気こそはベートーヴェンの世界観に相い通じるものということでしょう。
 交響曲第三番の「英雄」こそはナポレオンなのでした。

 それだけにまた。
 大衆の願いとして、葬り去るべき格差社会の山頂の王侯。そのまた最頂点である皇帝の椅子。
 その椅子に、民衆の代表者と目されたナポレオン自らが坐ったとなっては、ベートーヴェンの苦虫顔から歯ぎしりがこぼれたことでしょう。
 交響曲第三番を握りしめ床に叩きつけたエピソードがこのときと言われます。


 ところでベートーヴェンこの人は、すでに30歳代で耳の不自由を感じていたらしい。
 音楽とは音を編み出し紡ぎ出すことで始まる。
 発想して、一旦譜面にするも。つまるところ楽の音になってこそ音楽。
 作品として鑑賞に供されなければ聴く、者にとっては無いに等しい。

 つまり満足に聞こえる器官を仲介して成り立つ芸術だ。
 裏返せば、聞こえない者は、音楽は楽しめない。
 まして創れなどはしない。
 音楽という芸術は音の芸術なのだ。

 しかしながら。このベートーヴェンはであります。
 難聴の耳でありながらもその先において、なおも多くの曲を生み出したという。
 第九の作曲に至るあたりではほとんど聞こえなかったのだと。

 ここが彼の最も驚嘆すべきところではないでしょうか。

 よく対比されるモーツァルトは1756年生まれ。
 ベートヴェンより14才上。
 この二人は会ったという。1786年に。
 16才のベートヴェン君が、名声高き30才のモーツァルト様にお会いできたというべきか。

 のちに楽聖とまで呼ばれ、楽壇に名を高らしめることになるベートーヴェン。
 その生家は貧しく、例により父親は飲んだくれ。
 楽士であるその父が息子に音楽の才能を見て。
 聞き及ぶところのモーツァルトの父の英才教育などを真似たという。

 ベートーヴェンもその期待に応えるだけの音楽の才能をもっていた。
 お見目いしたこのときの少年に、モーツァルト先輩も才能の輝きを認めたといわれる。

 今にち、私などから見るに(聴くに)、モーツァルト先輩の曲想はなめらかで朗らかにも感じる。
 寂しくもの哀しいといっても。
 鬱陶しいまでの重さは感じない。
 べートーヴェンとの比較で言えばの話だが、深刻な難しさも無し。
 ファンに叱られそうだが、軽快さと線の細さを感じないでもない。
 それこそがモーツァルト音楽の楽しさであり素晴らしさだと思う。

 であるから、モーツァルトのファンにとっては、そうした重さこそがベートーヴェンを遠慮したい部分かなと思う。
 つまりベートーヴェンの音楽は、総てとは言わないまでも、こだわりの極めて強い曲想のように感じる。

 気分的というフィーリングではなく。あくまでも精神性というか哲学的というべきか。
 心の空白を嫌うというか遊び心を拒否するというべきか・・。

 挨拶などをするならモーツァルトは「は〜い。元気〜」でランラ、ランラ、ラララララ〜、か。
 良くも悪くも音楽は娯楽的であれ。
 お茶や語らいのひとときにこそ似合う作品、と言えば口が過ぎるだろうか。

 とはいえ。私も映画アマディウスほどの「ひゃははは」笑いがあったかどうかとなると、疑問も感じないではない。
 しかし音楽の爽やかな部分では、ああした言動もさほど不自然でないような・・。

 ベートヴェンの場合はといえば。
「うーむ。いやこの天気は爽やかな感じですな」
 やがて雷雨など予見しては口をへの字に結び。
 相手の気分的なノリに合わせてジョークのひとつも飛ばしてニヤつく、なんてことはない。
 何気ない、という言葉は彼の辞書になかったのかもしれない。

 だからBGM(バックグラウンド・ミュージック)には向かない。
 何を対象にするも、意味深くベートーヴェン哲学という形で取り込んでしまうのではなかろうか。
 大人げで足を地に着けふんばって。
 音楽人生と真正面から対峙している。
 だから聴く者にも作品に対峙することを要求する。
 気休めや息抜きに聴いて欲しくないのだ。

 音楽というものは、何かのときの盛り立て役とか、宗教の雰囲気作りのためのものではなく。
 音楽というものはどんなものからも独立した、一個の芸術。一分野である、ということなのでしょう。
 音楽の独立というか自立といおうか彼の時点で、芸術の革命が起きた。

 おそらくベートーヴェンの音楽に対するこの思いは、当時の人々の音楽の楽しみ方とはかなり異なってていた。
 であれば、それまでの人々が示す困惑や驚き、あるいは拒否にも出会ったのではないでしょうか。

 今的に言えば、きわめてオタク的な凝り系の人にも思われたかもしれない。
 それだけ独自な主張がこもっていて強烈。きわめて主張の強い真正面的直球。
 誰かの真似などは一切しない。いや真似など考えようもない。

 私は音楽の「お」の字も分からないのだが、こうしたベートーヴェン的である部分にこそとっても魅力を感じるのです。

 この人は、生い立ちからも、その後も経済的に貧苦続き。
 容姿や聴覚などの弱点もあれば。人間関係においても、母を早く亡くし親戚の裏切りや、生涯独身と、人心の温かみに恵まれなかったようです。
 そうした孤独な人生に、メゲず逃げずそして負けず。
 その闘志がその顔となって現れるのも、思えばごく自然なことでありましょう。

 ですから笑顔の似合う人ではなかったと思うのです。
 ベートーヴェンの深刻さは、人生まるごと創作した作品に現れている。
 よって真剣に聴いてほしい、と解釈すれば良いのだろう。

 21世紀の今の、世相風潮で考えれば。
 聴く側として、真剣さほど辛い要求はないのかもしれない。
 ネクラ、オタクなど言っては、深刻ぶった真顔や真剣さは遠慮され、疎まれる。
 出来る限りは、ジョークも軽いフィーリングで、笑い飛ばしてこそ粋で物わかり良い人とされがちだ。
 だから人一倍の自分らしい個性は隠してしまう。
 となれば、とてももったいないことでしょう。

 一方、奇異な映画声の演出はともかく、モーツァルトは笑いが似合っていたように思える。
 音楽からは、死の近くの作品といえども、あまり深刻さは感じない。
 これも生い立ちや性格の成せる違いではないか。

 よくも天は神は、かようなる相対した音楽の才能を、ほぼ同じ時期に。それぞれ与えてくれたものです。
 この二人の作風の間には音楽の無限の可能性が広がったのではないかと思うからです。

 と言ったようなわけで、敬愛すべきベートーヴェンですが。
 彼の作品で、どの話をすべきか悩んでしまいます。
 とはいえ総てを聴き込んでいるわけではありませんが、やはり中心的な作品として、第六番をあげたい。
 田園、と自ら称した、いなかに着いたときの気持ちの章から始まるあの曲。

 さぞや小春日和の午前中でもあろうか。
 明るく感じられる雰囲気で、瞬時に心弾みます。
 清々しい空気が溢れている。
 水彩画タッチではなくしっかりと塗り描かれた油絵の厚みが伝わって来ます。

 ところで印象としては、アジアの田園風景ではない。
 しいて日本風景で言えば、初夏から盛夏の山肌に広がる果樹園や、高原の草木の景色とか、平地の拡がりに点在する森林の眺めでしょうか。

 こうした曲の解説文には、よく「あくまでもベートーヴァンが抱いた田園風景からのイメージであって」とある。
 だからそのまま自然の音を探しながら聴くことに意味はないと言うことだろう。
 ベートーヴェンほどの人がただ自然描写などしないのだということか。

 私はこういういかにも音楽評論家や「通」ふうな難しい「お知識」な言葉に左右されないで聴くべきだと思うのです。
 とくに私のような初心者としては、です。

 受けて抱いた印象であることはまさにその通りだろう。
 けれどいなか風景からベートーヴェンが受けた第一の印象は、大自然の風であり情景であり音であることは紛れもない事実。
 見たまま感じたまま五感を通して受け取って、曲想を得たはず。

 だから恥ずかしがらず遠慮せず。
 ベートーヴェンなりに描いた小鳥の鳴きこえ、小川のながれ、春風のそよぎ、雷音のひびき、雨があがる雰囲気、というものの描写を確かめながら。
 これか、あれだ、と素直に聴けば良いと思う。

 それでもなお、聴いた各人が描くイメージは異なるものだ。
 この違いにおいてこそ、ベートーヴェンの描いた音楽を、自分なりにも楽しんだということになりはしまいか。

 そういうふうに聴くことで、思想的と言われるベートーヴェン音楽が自然への憧れとして、とても楽しく聞こえるのですがいかがでしょうか。

 たらり、らーらららーら、らりらりららー・・


おお 友よ「第九」だ(ベートーヴェン交響曲第九番)


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夢舟亭
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