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夢舟亭
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夢舟亭 メインページ 《幻考様思》
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   #32 12/24 (2022)

 30分ほどで行ける温泉施設がある。雪のこの季節こそ格別にありがたい。

 公的なそこは、太湯船のほかも今どき仕様の泡湯や滝湯、もちろん露天も。

 とくにサウナは私の愛用、定番。
 水風呂と交互の複数回浴。
 リタイヤ以来、週一、ほとんど欠かさず。

 またここの水風呂温度ときたら、まともの冬水。
 夏ならともかく、サウナ汗だくをシャワーしての冬季初回は、悲鳴で飛び上がるほど。

 これが不思議にも二回目からは、とっても爽快。不思議だ。

 よく海外ニュースなどの末尾に、北欧サウナ入浴シーンがあったりする。
 そんな彼らは氷の海や湖で冷やしていたりする。
 ちょっと見には信じがたい。けれどサウナを楽しむ私などには、まぁ分からないでもない爽快感/寒。

 そういう私も仕事現役時には、温泉、という楽しさは理解の外。
 自宅のお風呂で何が不満か、と高齢世代を斜めに見ていた。
 わざわざ出向く他人同士裸付き合いなど、と。

 ところがどっこい。
 こうして老いせまる今になって、露天だサウナだ、と大浴場に浸かっては、ため息深くご満悦。
 現役当時を、何も知らずにまぁフフフ、なのだ。

 人生道程は長く、心情感情情緒嗜好などなどみな曲折するもの。

 ましてやお猿だってとうにご承知の温泉、その良さなど言わずもがなですわい、と。
 




          −*−




#31 12/13(2022)

 晩秋から初冬のこの時期、晴れよりも曇天の日が多い。加えて寒気も増すで堪える。

 雨がみぞれ、そして初雪が舞いだせば冬も本物。
 見あげれば暗雲、地上周囲の景色も陰鬱の白黒灰。色なしに見える。

 心なしか人々の衣色までも、ノン・カラー。行き交う車までもほとんどが白黒灰系統。

 悪魔のエネルギーが暴爆飛散し、マスクをつけて逃げまどったあの歴史的な日々のように、今この列島全国民が顔の覆っている白マスク。
 
 私は若い頃から白黒灰色が嫌で、色つきカラーとは思えない。
 色彩を白黒灰以外で愉しみたい。
 振り返れば求めた車はほとんど赤系統だった。

 赤は元気が出る。
 この国では有色は目立つ。
 真っ赤なオープンカーともなれば、振り返らせずにおかない。

 そういえばあの震災と放射能拡散被害の後の一時期、そちこちの道路や駐車場などに、多彩で明るいカラー車が増えたの覚えている。

 推測だが、あれは中古車が不足し色の選定が出来ず、有色で我慢したせいではなかろうか。
 周囲が多色多彩になれば、新車までもがそれに習うのは、国民性で画一的を好む人たち、とは欧米人からの目線とか

 だのに数年を経て今、また周囲は元の白黒灰がほとんどに。

「おう。いいねぇ」の大らかな遊び心よりも「目立だたず」慎重地味、生真面色が優先か。





          −*−




#30 12/02(2022)

 枯れ葉よぉ〜♪ などと口ずさみ歩む林道小道。

 落ち葉は絨毯状に、また吹き溜まり積雪のごとく膝まで沈む。ざっくざっくと。

 よくもまあこれほどの葉を生み育てたものだと、裸になった立木たちを見あげる。

 暑いあついと汗拭きながら通ったのが、つい先日といえばは大げさではあるが、鬱蒼としたあの緑葉トンネルは、天井をすっかり無くしてしまった。

 数枚、残り葉が風にゆれているが、今飛んだ。

 何日かの秋晴れ陽光に輝いていた葉たち。金色赤色、そして茶色、やがて土色に。
 こうして生まれ育った木枝を離れて。

 詩歌に写し人の生涯に似せる、一年間の道程。
 その黄昏、木の葉たちの末期秋まで。もののあわれ、無情感。

 春に芽吹き、夏に盛んに繁り、やがて秋……。
 四季、自然の一周は、やはり人の一生の縮小版。

 それはしかし、一個の命を葉に喩えればであり。
 樹木本体から思えば、地上の国や村や町から見れば個々人、一葉。

 各々の葉らが、枯れ落ちて去ったその枝、国や村町には次の命の芽が、小さくもしっかりと現れい出る。あまりにも、早ッ。

 太い木の幹は、これまで風雨に耐え鍛えた根から、来る冬に備え、芽たちに養分を送る。
 暖かな春から夏には、緑葉が賑わい茂ることで樹木自身が必要な多くを得て、伸び、太る、未来。

 片隅の人知れぬ生を思い、落葉林道をまた先へ。
 





          −*−




 #29 11/23(2022)

 祝日で休日。
 全国的に”仕事”は休み。と、そういうことになっている。

 休む、楽しむ、遊ぶ、という言葉、その響きはどうも好きになれないという人もあるようだ。

 真面目にこつこつと、一生懸命努力して頑張る。
 そうした滅私や自己犠牲に似た姿言動にこそ人生美を感じる、感じたがる人。
『アリとキリギリス』の喩えを教わって染み付いた世代に多いか。いやいや、そうでもあるまい。

 人は親や家族、師の言動に影響を受けては多くを自分のものにする。
 戦後荒廃からのこの国の様子と親の姿を見て来てもそう思う。

 だから人育への影響は、時代その社会にも左右されよう。
 まして情報化の現代。ゲップが出て止まらぬほどの放送やネット情報は親の影響を超える。
 なんでも手に入る、というより、遮ることも断ることもできない、押し寄せ型。寝ても覚めても。

 そうした中で今、休む、楽しむ、遊ぶよりも、”休まされ、楽しまされ、遊ばされ”てはいないか。

 なんでも見られる知ることができるとはいえ、人は儲からないことはしない。少なからず、儲ける仕組みで誘導される。
 儲け、にも直接金銭につながらなくても、種々手前都合の利が複雑に隠されている。

 そんな油断被害の報道があると、また、やっぱり「真面目に、こつこつと、一生懸命努力して頑張る」のが一番無難、などと言われてしまう。

 人生は「面白くも堅実に」行きたいものだ。





          −*−




  #28 11/14(2022)

 感染症、伝染病のうほうが分かりやすい。
 三年になるCOVID-19。今でも”新型”のコロナは、伝染する、感染(うつ)るのだから困る。
 病をひきおこし、最悪は命の危機も。

 いつ、どこから表れ出て、ヒトに感染したのか。
 分からないのか、隠しているのか。まさか人が生み出したのではあるまいが。
 各国その筋の当局は口を閉ざしたままだ。

 感染者数グラフでは冬季と夏季で増え、山谷が繰り返すたびにより高くなる。

 人間側の移動活動の粗密に連動してるようにも見えるが、しかしそれだけではなかろう。
 ウィルス、バイキンくんたちの持つ特性が温湿など自然環境に関連あり、か。

 そうならばこの冬、歳末の頃にまた彼らは盛り返し感染しまくろう。8回目の山だ。
 これまでの世界感染者総数は、わが国全人口を5回も総なめするほど。

 人類歴史の過去にも伝染病はあった。でも結局は消え去った。いや人類の医学が勝利した。
 では、今回も、医学は勝利する、か。

 過去の例は当てはまらないかもしれない。
 今、人の動きの移動距離も速度もその数も、各国とも桁違いに多い。
 それはバイキン持ち運びの移動そのもの。

 そうしたなかで、彼らは次々と様相を変える。いわゆる変異する。
 こうかと思えばまた変わる、七変化。
 これが医学的には手強く、しぶとい。

 もちろん最終的には人類の勝利、と期待してはいるのだが……油断大敵。





          −*−




  #27 11/08(2022)

 林道や草道を歩くとき、足元を小さな甲虫や毛虫が横切ったりする。

 彼らはほとんどが一匹。季節により、背に載せ二匹のときもあるが、群れることはない。
 孤独なものだなと思う。 

 つまり彼らは、行く先はもちろん行動目的すべてを、自己決定。
 誰かに従って生きていない。自由だが自己責任。

 生物は食物には集まるが、基本的に群れるのと群れないのに分かれるよう。
 アリやハチなど集団生活の典型か。

 獣の類も。群れるのとそうでないのが。
 草食系が群れているようだ。助け合いか。

 こちら人間は、群れたがるのとそうでないのが同種なのに、ある。
 実際の出会で群れるだけでなく、今どき人類は情報共有型でも群れる。

 で、私はといえば、群れ”ノーサンキュー!”。
 独立独歩などという気負いはないけれど、正直なところ煩わしい。

 つまりは自由気まま系、好きにやるからほっといて!

 そんなだから、人を呼ぶ数稼ぎの仕組みや、多人気に興味はない。まず近づかない。
 集団行動などもってのほか。隊列を組むなど見るもいや。

 早い話が、人気(ひとけ)を避ける、少数派。

 だのに、足元を忙しげに行く小虫に、おいどこへ行くんだよ、などと屈んでいたりする。





          −*−




  #26  10/26(2022)

 日々、草木や昆虫などを目にしていると、良くできていると思う。
 いつ、誰が、どう創りあげたのか、無駄がなく、完成度が高い、と。

 個々それぞれの造作、姿形もさることながら、それらの絡み関係も。

 春が来て花が咲き、そこで喋や蜂など昆虫が食を得る。
 それで木々には実がなる。やがて地におちて芽をだし、育つ。虫たちも命を繋いでゆく。

 あたりまえだが、その間人間様の世話にならず。
 要るのは、自然の営み。降って晴れて、の四季。
 
 壮大な自然の成り立ちは、長い時の流れのなかでまさに自然に、異変・変異、偶然の繰り返しで。
 各々、個々それぞれが、その地その場の状況に相して、都合よく変化し生き残ったか。

 けして”創造主”などという人間ごときの想像ストーリーのようではなく。

 この地球を外から見れば、大宇宙のなかにぽっかり浮かんでいるというのもまた。
 誰かが作った釣り糸で、どこかにぶら下がっているわけではない、数十億人の住み家。

 さらに太陽の周りを巡り、なんと自体も昼夜回ってる。
 電動モーターも排ガスエンジンも無し。もちろん鉄塔や電線の引き回しも燃料配管も。

 そんな星の表面の、自然界の摂理、営み成り立ちだけでも、とても人間の想像など遥かに超えて果てしない。

 身近な林道を歩むとき、そんな思いが湧いた。
 





          −*−




  #25  10/17(2022)


 部屋に一人こもる時が多い分、散歩を欠かさない。

 幸い、閑散とした田舎風景のこの地域。散歩コースには恵まれている。

 現役時は、四六時中机仕事で数十センチ前のスクリーンを睨んでいて、視力が落ちた。
特に遠くのものが見えなかった。

 今は遠くはよく見え、近くのほうが見えにくい。
 リタイア後の山野散策の習慣がそうさせた。自然に目覚めた結果だ。

 かように習慣というか生活スタイルというものは、身体に変化をもたらすようなのだ。

 机上仕事にディスプレイ常備となったのは、パーソナルコンピュータが普及してから。
 それらがネットワークで繋がったのは、この20年ほど。
 あっという間に液晶画面と睨めっこが、”仕事”となった。

 そして今、携帯電話、スマートフォンに代わり、机を離れどこに居ても、仕事がついて来る。もちろん自宅にまでも。
 まさに仕事から目が離せない。

 ごく近くを見続ける今どきの”スマホ”生活となった。
 思えば”エライ”こと。
 とんでもないことなのだが、すでに常識。いや必須アイテム。

 かくして至近距離に焦点をあわせ続け、見つめ続ける生活スタイルとなった。
 私はすんでのところで、せずに済んだ。





          −*−




  #24  10/07(2022)

 好まれない野鳥といえば、カラスか。
 真っ黒体毛に嫌悪、啼き声も敬遠される。
 近くで見るとかなり大きく、頑丈なくちばしは突っつかれたらヤバっ。

 そんな彼ら百か二百羽もいようか、山上の鉄塔電線横一線にガアガアと賑やか。
 数年前、水害浸水家屋からの廃棄物で山盛りになった辺りに急増繁殖し、片付いた今も子孫か、未だ多い。

 私は、あまりカラスに嫌悪感が湧かない。
 カラスなぜ啼くの〜♪ の歌のような、可愛い5つの子育てを目の当たりにしたからか。

 向かいの林の高い木立の枝に、二羽の黒い姿を見とめ、時々観察……と。
 まもなく巣作り。そして片ほうがうずくまる。やがて孵化。

 それからの親らの甲斐甲斐しさにちょっと頭が下がった。
 見るみる大きくなる子どもたちは暇を与えず。
 近くの電線にわずかな小休止もつかの間、夫婦共々即飛びたつの繰り返し。

 簡素な巣からはみ出す図体になるも、子は子。次々とねだる。
 何を与えるのかほぼ一日中、子育ては休みなし。

 すでに親子の区別もつかない5体がまだねだる。
 巣立ちを終え飛びたってさえ、親に寄り羽ばたき甘えて、ねだる。
 それへ与えるは、親ばかか。

 いい加減にしなよ、と窓辺で呟く。隣で見ていた家人が、ふふふ。

 寒い国には白いカラスがいるらしい。





          −*−




  #23  9/27(2022)

 ポーランド生まれのショパンの曲に”子犬のワルツ”がある。
 子犬というか仔犬か、小犬か。飼い主の足元に絡まるような転がるような、ピアノの小曲。

 ま、それはともかく。散歩で目にする多くがそうした犬連れ。つまりは小型犬。

 世界的な疫病蔓延のために、こもりがちな日々の健康管理か、中高年のどちらかといえば女性、の散歩が目立つ。
 そのお供に小型犬。さすがにラブラドールなどの大型犬では荷が重かろう。

 今、ペットショップをのぞいて見て驚くのは、そうした小型犬の値段の高さ。中古のクルマが買える値札だ。
 需要の割に数も少ない感じがする。

 時刻にもよるが、この夏、猛暑のさなか、小さく短い足を繰り出しながら、灼けたアスファルト路ですれ違う舌出し姿は、切ない。

 犬連れ散歩で飼い主の気遣いが糞尿の始末。

 それらを「持ち帰ってください」の立て札などが公園にはある。
 一旦芝生などに”した”糞を、飼い主が用意したビニール袋などに拾いとるのを見る。
 一方、尿のほうは、殆どが知らん顔。

 休日に、家族連れの幼児がそこで転げ回るのを目にすると、ちょっと辛い。

 ペットロス、という悲しみがある。
 最愛の小犬を亡くした散歩知人も、それを期に姿を消した。
 一見さほど溺愛の様子はなかった。が、愛犬あっての散歩であったか。





          −*−




  #22  9/17(2022)


 蜘蛛が張りめぐらす糸が木々の間に目立つ。
 顔に絡みつくので笹竹枝を前で振って歩く。

 この季節に多いのは女郎蜘蛛。
 蜘蛛のなかでは手足も長く、とくに尻の大さが特徴。全身黒と黄色の縞模様が不気味。
 もっとも大きいのはメス。オスは居るのが分からないほど小さく、晩秋くらいには姿を消す。メスの食料になるとか。

”女郎蜘蛛”の名はメスのこの所業から。
 それでもオスなしでは、子孫を遺せまい。

 蜘蛛たちの巣を見上げると、左右両端を見てあらためてその長さ広幅に驚く。架け橋は実に大きい。
 長時間のこの大工事の様子は見てみたい。

 鳥類ならオスが作りメスを招くのがあるが、人に例えれば瀬戸大橋ほどの大工事をどちらが……。

 木を登り高さを決めたとして、遙か向こうの木までの一本目の糸をどう架けるか。
 糸を尻から繰り出しながら、まさかジャングル状態の下雑草地を目当ての木まで這っては進めまい。

 では風に乗って『スパイダーマン』のように空中ブランコをするか。

 そんな思いで見る蜘蛛の空中マイホームも、他種の羽虫ほか昆虫にとっては恐怖の死の罠であることにまた驚く。

 蚊やアブはもちろんトンボや喋などが網に舞込んで掛かる。
 蜘蛛にとっては苦労の成果が生み出したご馳走。

 額の汗を拭い背や腰を撫でつつ唾を飲み、けして楽に得たものではないぞと食卓についているかも。





          −*−




  #21  9/7(2022)


 ようやく秋の雰囲気がでてきた今日このごろ、オマケに台風が。
 地震大国といわれるわが島国は台風の通り道。

 太平洋と東シナ海付近で、次々と生まれでる彼らほとんどが、ご丁寧にも通過するのが不思議。

”彼ら”といったが、アメリカでは女性名を付けるようだ。ハリケーン・カトリーナなど有名。

 台風、タイフーン、ハリケーン、サイクロン、と世界を荒らし回るたびに、人類は震いあがる。

 もっとも地上世界の破壊者としての脅威度をいうなら、その人類自身こそが、最強で最右翼。

 近年その人類自身が、可笑しくも『持続可能な開発目標』、いわゆるエス・ディー・ジー・エス(SDGs)とか言い出した。
 地球環境、自然破壊を最小限に考えたうえでの、永久永続的な生活を維持する環境、その目標。

 そのためには、単に地球環境というだけでなく、皆が平和に安全に平等に賢く豊かに幸せな健康生活を送れるようにという広い視野の17項目。

 人類がそんなコトできるの、と言いたくなるほど現在の人類、その状況との差があまりにも大き過ぎるのだが……。

 地球環境だけを思っても、人類が住み着く限りこの星の自然環境保全は難しかろう、と。
 極論すれば”人類の滅亡こそが目標達成の最短コースなどと茶化したくもなる。

 そんな戯言の間に、今台風は温帯低気圧に変わったらしい。
 さて次はの台風は何号だったろう。





          −*−




  #20  8/27(2022)

 森羅万象、花鳥風月。自然摂理の営みのほとんどが、ヒトの為に在るにあらず。
 誰もが解りきっているそのこと、その有り様がときに喜びや感動までを生み出してくれる。またその何倍もの災害となって、襲いかかりもする。

 人間の誰が創り上げたわけでもないこの地上。大宇宙にぽっかり浮かぶ存在は、未に謎だらけ。ただここに存在している。

 ここ。ここ、というとごく身近な周囲。
 長年あまりに見慣れ、ありふれて珍しくものないまま過ぎている。
 旅行案内チラシなど目にすると、光がさすように、その地ならではの名所景勝地に心惹かれる。

 近くの神より遠くの神、を有難がる、の喩え。

 散歩で、一輪の彼岸花に見とれていると後ろで、何万本もが咲き誇るかの地の名を言って笑う人が。
 自分は見てきたがそれはそれは見事なものだと。
 撮るならそういう豪華絢爛たるものでは、と。

 昨今は、町おこしなど地域活性化を目指して、盛んに花壇や庭園の拡張造成を行うところが少なくない。それを観光資源として客を集めの策に。

 一方、野の花に限らず、温暖化との地球全体の気候気温の変化もあって、どこでも結構な花は育つ。
 我が家でさえも、バラなどが根付き賑わった。

 全国展開チェーン量販店での菜園品目拡大もあって、珍しい花々が津々浦々各地の家庭で見られる。

 ならば競うのは、量や種類や広大さや庭園のデザイン。そして観光経路の温泉や湖沼などの景観も。

 このところそうした競争に、人工的映像世界、メタバースなるものが加わったようなのだが……。





          −*−




   #19  8/17(2022)


 お盆が過ぎてか、暑さも一休み。
”ヒト科”生物のわれらも、一息つける。

 雑木に絡まる蔓草、真っ白いホーン状の、開いた開口部が赤いごく小さい花房が数多、塊となって、雨に濡れて咲いている。

 蔦としての茎はけっこうに長く伸び、ハート型の緑葉をいっぱいつけて木々に絡まったり、石垣などに垂れていたりする。

 この野草の名も例にもれず、誰がつけたものか言葉にするのも憚られるほどいい加減。へくそかずら(屁糞葛)とは、微臭からという。

 もっとも、こちら人間がどう命名しようがいかに呼ぼうが、花のほうでは知らぬはなし。

 この季節、つるりんどう、という花も可愛い。
 おなじくつる草の花。
 淡い紫色で、やはりホーン状に開く小花だがより大きめで葉は小さめ。

 私が被写体として見とめ知った花のほとんどは姿形からで、名は後。
 ネット検索で知ったにすぎず、よく忘れる。

 野草小花の撮影はたいがい近寄って腰をおろし、さらにズームアップ。

 今、立ったまま撮れるのは、月見草。かなり背高の茎の先端に黄色い花。
 月見の頃合い時刻に開くとの名だろうか。
 朝も昼もけっこう開いているのだが。

 それはともかく、咲き始めの手で重ね合わせたような花びらの重なりが、可愛い。





          −*−




   #18  8/11(2022)


 林道の草むらにキボウシが咲きだした。
 30センチほど直に立つ茎は細く、管楽器のホーン状に開く花びらは、白地に紫。

 漢字では「擬宝珠」。名の由来は蕾の形状から。
 語音キボウシから黄色い帽子をイメージしそう。

 名付け由来というものはたいがいがいい加減。
 誰が言うとなく言い交されて来たのだろう。
 形や色から、また見る季節や咲く所など様々な印象から。
 
 色といえば、有色無色の違いのある花も。
 陽のよくあたるところのは濃いけれど、日陰では色が薄い。つまり白色。

 永い時を経るとそれが別品種になってしまうのもあろう。
 たとえば、黄色の花が”金”で、薄いのは白だから”銀”というように。

 春の山林に見る蘭の種、金蘭と銀蘭なども一例。
 面白くも不思議だが、なぜか金蘭のほうが少なく、希少価値。

 そういえば人類も、有色が起源らしい。
 アフリカの有色人種が、万年単位の時を経て世界各地に移動し広がり増殖。
 住む環境、気候の影響で変色していったという。

 高温の地域は灼かれてか肌色が濃いけれど、温度が低いところでは薄く白い。

 人類は薄い白に好感を抱くよう。アジア系が黄色で金色なのだが。

 それはともかく、この星に生きるすべてが、遙か1億数千万キロも離れて燃えて広がる太陽からの、ほんのおこぼれ光熱に影響され長らえている。





          −*−




   #17  8/3(2022)


 今日も猛暑。
 連日うだるような太陽光熱が汗をしぼる。
 命の危険があるとも報じている。エライことだ。

 これでは、さすがの私も出控えて、室内冷気。
 時折早朝散歩もするにはするが、即シャツが雨降りに遭ったように濡れる。

 そんな朝も遠く人影が幾つかある。
 今どきは健康に気遣う人たちか多い。
 だからか、散歩というより、ジョギングあるいは、速歩というほどに急ぎ足で過ぎる人もある。
 私のようにカメラを肩にあっちにふらり、こちらでしゃがみというような姿には、二十数年の間ほとんど出会わなかった。

 皆一様に体力をつけるためにと、一心に歩く姿に表れている。
 追い越されるこちらが、そんなスローな歩速では体のためになりませんと言われてしまいそう。

 そうした健康第一の筋トレ系の方々は、春の花の季節も秋の紅葉どきも周囲風景とは没交渉。一切目に入れずただただ足元を睨んで歩を進める。

 もっとも、春に熱心だったそうした方が、必ずしも秋にも見るかというと。なかなかそうは続かないようなのだ。
 大概は”新年の誓い”で始める1月からの体力増強運動も、半年続けば素晴らしいほう。

 そういう私だって、体のためにただただ歩くだけ、となれば一ヶ月続くかどうか。
 まして夫婦でジョギングなど争いの種。

 やはり私は、独り道草を喰いながら、ファインダーごしに野草や樹木、小虫羽虫を楽しむ散歩が似合っている。





          −*−




   #16  7/25(2022)


 今散歩道の花はユリ。白い山ゆりが土手面を被っている。
 毎年同じあたりに白い花が賑わう。

 歩く姿は百合の花、というほどに綺麗な花だ。

 人手で育てるユリ園を埋める色とりどりのあれらと異なり、自然育ちの山ユリは、白く大きな六枚ほどの花弁に茶色の斑点が。
 中に花芯が数本あり、心棒のように濡れた頭が一本真ん中に。
 そうした花が、互い違いに緑葉生える細く長い茎の、先端に咲く。

 そんな山ユリのほとんどが、花房が育つほどに頭を垂れる。
 人間的な姿勢でいえば、腰が低いか。
 視る限りでは、花房の数と大きさを支えるにそぐわないほど、長い茎が細いのだ。

 花房は年を経るごとにその数を加えて咲く。今まで見たものには十一房のもあった。
 そうだから、山ユリはたいがい茎を弓なりに丸めて、重い花房の頭部は地につくほど。

 年齢の数の花房を、背を丸めて支えるユリの姿。それは苦労多いなかで必死に働く子だくさんの母親に見える。

 だから、なんでそれほどに咲かすのとつぶやいてしまう。

 そして、あまりの重さに花房を地にまでつけてしまっているのを持ち上げ、枯れ木で支えを添えてやったりする。

 翌日にそれを見て通ると、お陰様で楽になりましたよと汗をふきつつ風に揺れている。





          −*−




   #15  7/09(2022)


 散歩の道筋のほとんどは、土を踏み草道、そして枯れ草の堆積した林道へ。
 足元にクヌギの木の実ドングリが落ちている。

 それらの幾つかが頭からピンクと白色の芽を伸ばすのが、春。
 じつは伸びたのは根で初夏の今、芽は別に上に向けて緑の可愛い枝になり小葉を数枚広げている。

 何年かこうした様子を目にして、ドングリは毎年落ちて実すべてが芽(根)を突き出すのではないと知った。

 リスなど小動物に食べられてしまうのもあろう。
 また、それらみなが根づき細く小さいクヌギの子どもとなり、大きく育つとも限らいだろう。

 自然は常にある種バランスをごく自然に保っているのか。

 ドングリにかぎらずこうした発芽の推移を目にすると、新しい命が健気に感じられ、大きなれよと小芽をなでたりしてしまう。

 そうしたことは、家族を抱えて仕事に就いていた夢中の頃は、思いもよらない別世界。
 誰しもが通るがむしゃら人生の道程だったか。

 むかしむかしそのむかし 椎木林の直ぐ側に〜♪ のあの歌。
 お山の杉の子、の歌の一節は、今こうして自然に開眼した散歩でのマイ・ソング。

 また、ひと粒の麦も死なずば、の一節も口に出るマイ・ポエム。

 こうして思えば人は自然の子たちの”生きる姿”を目にしてきたようだ。





          −*−




   #14  7/09(2022)


 今が一番植物が育つ季節と感じる。

 それほどにも成長するのはやはり水分、降雨量。加えて好天続き。

 とくに草、道端の雑草など見る間に伸びる。
 背丈が短い草たちだから、伸び率が大きく感じるのかもしれない。
 見上げるような樹々が、日々どの程度伸びているのかは定かでないのだから。

 そういえば、散歩の林道で仰ぐように目にする樹木の背丈には驚く。
 高いのになると数十メートル。よくも育つものだと、目をみはる。

 あるとき、「根から先端まで水分を汲みあげて送るのはどのくらいの時間なのでしょう」と植物の先生に問うた。
 木の種類によりましょうが意外に早いもののようです、とのこと。
 数時間もかからないというのだった。

 人間社会において、自然から学び参考にし、応用した科学技術、その進歩は多いようだけれど。
 大仕掛なポンプも装備しないで、常に変化する天然自然に応じて、水分と滋養を自ら取り込み、自力で育ってゆく植物。その摂理、思えば不思議。

 さらに樹木の寿命というのも思いのほか永いのに驚く。
 桜の木など、手入れしているとはいえ千年ものもあるのだ。

 一方、松の木などは近年、松食い虫に蝕まれて朽ちた太木を見かけるようになった。
 倒木となってボロボロに腐食しているのを、跨いですぎるときその哀れさに心痛む。









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